画像一覧 > 幼童教のはじめ / 甲斐織衛, 須田辰二郎訳


  『幼童教のはじめ』は、明治7年万笈閣の発兌で、福沢諭吉の門下生である須田辰次郎と甲斐織衛による「合訳」すなわち共訳の本である。原本は定かでない。当時、須田も甲斐も中津市学校などで、教壇に立っていたので、原本あるいは本書は、それらの学校で教材として使われた可能性もあるが、確認はされてない。
  書名は、表紙題簽ならびに表紙裏では『幼童教のはじめ』であるが、目次冒頭ならびに本文冒頭では『童蒙教のはじめ』となっており、訳者がどちらの書名を意図していたかはわからない。
  緒言には、「夫(ソ)レ学(ガク)ハ天下(テンカ)ノ智識(チシキ)ヲ広長(コウチャウ)スル所以(ユエン)ノモノニシテ、最(モット)モ入(イ)リ易(ヤス)ク学(マナ)ビ易(ヤス)キヲ要(ヨウ)ス。漢洋(カンヤウ)ノ難文(ナンモン)ヲ読(ヨ)ミ徒(イタズラ)ニ詞章(シシヤウ)ノ末(スヱ)ニ趨(ワシ)ルハ学問(ガクモン)ノ本意(ホンイ)トスルニ非(アラ)ズ。学問(ガクモン)トハ只天下(タダテンカ)ノ事物(ジブツ)ヲ知(シ)リ智識(チシキ)見聞(ケンモン)ヲ広(ヒロ)メ実事(ジツジ)ニ当(アタツ)テ惑(マド)ハズ明(アキラカ)ニ大義(タイギ)ヲ弁(ワキマ)へ人(ヒト)ノ人タル本分(ホンブ)ヲ尽(ツク)スノ道(ミチ)ヲ知(シ)ルノ術(ジュツ)ナリ。」とあり、翻訳者は、福澤の学問観を踏襲している。しかし、内容は、多方面の実話に例をとり、学問と実践活動の面から人間の生きる智慧を学ぶことが出来るようになっており、『学問のすゝめ』とは、異なった手法の本である。
 構成は、上下二巻全二六章。解題者として特に関心をもった諸章は以下の内容である。第五章「万物みな有益のものたる事」は、物の再利用の考え方。第六章「御者ぢょんの事」には、「利欲(りよく)の為(た)めに正しからざる事に誘(いざな)はれ、或(あるひ)ハ悪(あ)しき朋友(はういう)のために正理(せいり)を屈(くつ)して非(ひ)に導(みちび)かれんとするときハ、断然(だんぜん)と抵抗(ていかう)なし決(けつ)して其引誘(そのいんゆう)に隨(した)がはず、然(しか)る時(とき)ニハ身(み)を屈(くつ)せず正理(せいり)を守(まも)つて固(かた)く之(これ)を拒(こば)むべし」と云う教えがあり、後世の慶應義塾塾長小泉信三の「善を行うに勇なれ」という言葉を思い出す。十四章「熟考の大切なる事」では、世の成功をした先人たちは皆、「恒耐」すなわち熟慮熟考があった事を指摘している。十五章「いゝぜんとぽうる」では、虐めを克服する為に教師が考えたその知恵を紹介。十六章「虚想者と実行者の事」は、躬行実践の話で、先導者となる為に実践の大切さを説いている。十七章「雑話」の一つには、「書籍(しょじゃく)ハ人(ひと)を笞(むちう)つことなく罰(ばつ)することなく又言(またい)ハず怒(いか)らず食(くら)ふことなく束脩(そくしゅう)を望(のぞ)まずして教育(けういく)する教師(けうし)なり」とある。二十章「物学びする趣意の事」は、要約すると、良書は、読者を歴代の大人や君子に交わらせるのと同じで、諸大家の言行を見、貴重な意見を聞き、その精神を読者の心の中に注ぐのに等しいとある。二十一章「童子悪に誘れんとして九字言葉思い出せし事」にある「九字言葉」とは、「上帝常に我を見る」という九字であり、この章は常に天に恥じない生き方を求めている。その記述は、『福翁自伝』で福沢が述べている「誠意誠心屋漏に恥じず」という父百助の生き方にも通じている。二十六章「ぜいむす ぶらんく山にて雪夜を送りし事」は、モンブランに初登頂した人の事績であり、ここには困難に打ち勝って、登山の道を初めて切り開いた先導者としての苦労と努力がある。
 この時期に教育を受けた多くの若者が、相応の倫理観を持って新たな職業に挑戦しようとした。中村正直『西国立志編』をはじめとして、そのような精神を育んだ書は多いが、本書も、学生達にとって実践的な人生の教訓書となった書であると考えられる。
  なお、本書と類似した訳書として『童蒙をしへ草』がある。同書は、福沢諭吉が明治五年に子ども向けにイギリスのMoral Class Bookを和訳した道徳書である。「童蒙教草序」には「願クバ後進ノ少年諸学入門ノ初ニ先ツ此書ヲ読ミ、慎独修身以テ分限ヲ誤ラズ次第ニ物ニ接シ人ニ交ルノ道ヲ明カニセバ彼ノ経済窮理史類百般ノ学モ其実ノ裨盖ヲ為シテ弊害ヲ生ズルコト莫カル可シ」と、具体的に「分限ヲ誤ラズ」とは「経済ヲ談ジテ分限ヲ知ラザレバ利二走ルノ幣アリ窮理ヲ説テ分限ヲ知ラザレバ天ヲ恐レザルノ幣アリ・・・」と説いて「自主自由ノ趣旨ヲ誤認テコレヲ放肆無頼ノ口実に用ル等コトアラバ其世妹今日教に害ヲ為スコト挙ゲテ云フ可ラズ」とある。子ども達の人格形成の上で知識のみに偏らない人間の基本を教え、自主自由とはいかなるものかを教え、品格の高い人間性を少年期に育てることが最重要であるとする。107の挿話が収められており、それらを読むことによって青少年の感じやすい柔らかい心に人間性に示唆を与える話が多い。『幼童教のはじめ』と『童蒙をしへ草』は比較検討されるべき2書と言えるだろう。(岩 弘)