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人名 |
Mayet Paul |
人名読み |
Mayet Paul |
生年月日 |
1846/5/11 (弘化3年) |
没年月日 |
1920/1/20 (大正9年) |
出生地 |
ベルリン, ドイツ |
専門分野 |
統計学 |
解説 |
ポール・マイエット(Mayet ,Paul Carl Heinrich)は、1846年5月11日ベルリンにて、内閣中級会計官の息子として生まれた。長じて後、スイス・ローザンヌのカントン・アカデミー(Academie canntonale)やベルリン大学で学んだ。1867年にはライプチッヒ大学へ移るが、1870年まで7年間の学生生活で学位を取得することはなかった。学業を断念したのは、健康上の理由らしい。 1871年には自営商人として活動を開始する。その後、1874年にウィーンで開かれていた万国博覧会を見て、マイエットは日本に興味を持ったと伝えられる。日本へ渡るスキル・アップのためか、その年からフランクフルト(Frankfurt am Main)における生命保険会社に勤務をはじめた。この経験をかわれて日本へ渡ることになる。マイエットの日本への招聘には木戸孝允が関与していたが、木戸は死去するまでマイエットのよき理解者であった。 1876年1月12日、マイエットは東京医学校でドイツ語及びラテン語教師として雇われることになる。当初から経済問題に興味の深かったマイエットは1878年には家屋保険に関する処女作をベルリンで出版している。 教師としての2年契約が切れた後、1878年5月13日大蔵省事務の報告及び意見編纂の職務に就いた。後1879年には大蔵省顧問になっている。これらの業績が後に認められ、1882年9月20日には、勲四等叙勲の栄誉に浴した。 さらに農商務省や逓信省の顧問も歴任し、1886年からは労働省の委任により保険の研究を始めている。また、同じ年から東京帝国大学でドイツ語教師として1年間勤務している。これらの職務の間にも精力的に著述を続け、1889年3月9日にはテュービンゲン大学より、『農業保険論』を本人不在のまま審査の結果、政治学の博士号が授与されている。この書は翌年に邦訳出版された。また同じ1890年にはプロイセン・ドイツ皇帝より「プロシア国大博士」の称号を贈与され、教授資格も獲得した。 マイエットの来日前の経歴は凡庸であったが、彼は日本に来てから研鑽を積み、博士号や教授資格を取得して帰国している。彼は日本に教えに来たと同時に、日本でキャリア・アップをして母国へ帰った人であった。 マイエットはさらに1891年、「欧州各国の農商工の業務に関し参考材料蒐集の事務を為したるため」という理由で勲三等瑞宝章を叙勲している。また、この年から有栖川宮、小松宮、北白川宮、伏見宮各殿下の御前で農業保険について講義している。彼は7回にわたって日本の農民の困窮状態とその打開策を説いたと伝えられる。さらに同じ年、彼は慶應義塾大学で統計学の講義を始めた。 マイエットは1891年から帰国する1893年まで理財科で教鞭を執ったが、この事実は現在ほとんど知られていない。東京医学校や東京帝国大学ではドイツ語講師であったので、慶應義塾において経済学の講師として勤務したのは、彼の履歴の中でも特徴的である。また当時の慶應義塾の外国人教師は、義塾で教えるために来日する人も多かったが、マイエットは義塾とは関係なく来日して講師になっている。当時の理財科における外国人教師の中でも、彼の経歴は独特である。 マイエットの経済学は、ドイツ歴史学派であった。当然のことながらアダム・スミスなどのイギリス経済学には批判的である。マイエットは「英国経済学者は国家なる意義を解釈すること狭隘浅薄に過ぎたる」(「経済論」1885年)とのべ、アダム・スミスの理論を世界的に普遍なものとは考えられないと主張している。彼は統計資料を駆使して、各国の制度を比較しており、それぞれの国のよいところを組み合わせることでよりよい制度を模索した。 マイエットは農民の貧困に多大な関心を持った。彼は家屋の火災に対して強制加入させる保険案を作った。これは最終的には廃案になったが、家屋という財産の増強をはかることによって農民の経済力の向上をねらったものである。 帰国後は統計局勤務や政府顧問などをし、著作も精力的に書いた。1903年には、万国統計会議に列席した日本政府委員のため尽力した。この働きが評価され、1905年には日本政府より、旭日三等章が授与されている。最晩年には第一次世界大戦が勃発したため、これに呼応した本をいくつか記している。マイエットは、1920年母国の敗戦の後に死去した。現在も農業経済学や保険思想研究を中心に、マイエットは高い評価を受けている。(坂本慎一) |
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旧蔵書 |
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出典 / 参考文献 |
Walther Killy[et al.], ed. "Deutsche Biographische Enzyklopadie". K.G. Saur, 1995-2003., Historischen Kommission bei der Bayerischen AKademie der Wissenschaften, ed. "Neue Deutsche Biographie". Duncker & Humblot, c1953-., <写真>ユネスコ東アジア文化研究センター編『資料御雇外国人』より引用 |