人名 呉 文聡
人名読み Kure Ayatoshi
生年月日 1851/11/27 (嘉永4年)
没年月日 1918/9/19 (大正7年)
出生地 [東京都]
専門分野 統計学
解説

  1851年11月、江戸青山で安芸藩浅野家の医師呉黄石の次男として生まれる。従兄弟の箕作麟祥の塾で英語を習った後、14歳のとき、父黄石と親交のあった福沢諭吉の慶応義塾(鉄砲洲)に行ったが、喧嘩の多い殺伐とした雰囲気に耐えられず一週間で家に戻ってしまった。二年近く広島で過ごし、18歳のころ再び慶応義塾に入ったが、新銭座移転後の義塾は規律ある学塾生活のため塾則を制定していて、柔らかい着物などを着て洒落者と見られた呉は塾の風儀に合わないということで他の者と共に福沢から退塾を命じられた。
 その後、工部省電信寮訳文課に勤めていたが、学問にもなり仕事にもなる統計のことを聞き、1875年26歳のとき正院政表課に勤め、課長杉亨二のもとで統計学を学ぶようになった。杉亨二はドイツ社会統計学の最初の紹介者であり、わが国の官府統計の基礎を築いた人物である。正院政表課の若い官吏たちは、新興日本に必要な近代統計のための調査機構を準備するという杉の意思を共有した。彼らは1876年に杉を社長としてわが国で最初の統計学会となる「スタチスチック社」(後の「統計学社」)を結成し、毎月統計学の講義を開いて、呉もイギリスの統計学会の雑誌論文を紹介した。また彼らは1878年に「東京統計協会」を結成した。呉は統計学に関する論文を「スタチスチック社」の『スタチスチック雑誌』(1886年創刊、後の『統計学雑誌』)、「東京統計協会」の『統計集誌』(1880年創刊)に投稿し、またそれらの編集にも関わった。彼は生涯で約170篇の論文を発表している。呉は、過去の現象を見て今日の結果を知り、今日の現象を見て未来の結果を予測することができる、すなわち、社会の福祉の進歩を阻害する要因を調査することができる統計学は、人類の幸福を最も増進させるものであると考えた。また、近代国家にとって、政府が政策方針を決定し、行政を行い、立法の効果を検証し、国民に国家の現状を理解させることができる統計は必要不可欠なものである。呉は近代統計の手法を整備し統計思想を普及させるために、政治家になることも志した。
 杉は1879年に全国的な人口センサスの先駆けとして、山梨県でわが国で最初の直接静態統計調査である「甲斐国現在人別調」を行い、呉もこれを手伝った。翌年、呉は内務省に移り、衛生局で衛生統計を整備することになった。正院政表課は1881年に太政官統計院と改称され、院長大隈重信のもとで統計事業が拡張されたが、杉やその部下は不遇となってしまった。統計院は1885年の内閣制度創設時に廃止され、内閣統計局となった。
  1881年に国会開設期の詔勅が出された。呉は自由民権運動に関与するため内務省を辞し、広島県立憲改進党を結党し、『朝野新聞』の記者となった。日本鉄道会社で鉄道統計の仕事もしたが、1885年に再び官界に戻り、駅逓局(後の逓信局)御用掛、運輸課統計係長となって逓信統計の確立と整備に努めた。また、東京専門学校(現早稲田大学)、学習院大学科などで統計学を講義した。この時期に処女作『統計詳説:一名社会観察法 上』(下巻なし)( 1886年)を公刊した。彼は『応用統計学』(1888年)、『統計原論』(1889年)、『統計学 完』(1890年)、『理論統計学』(1891年)、『統計実話』(1899年)、『純正統計学』(1901年)、『戦後経営人口統計』(1905年)、『実際統計学』(1909年)、『産業統計講和』(1914年)と、生涯で約10冊の著作を著している。また呉は逓信局時代にドイツ語を学び、ドイツ社会統計学派の文献の翻訳と紹介に努めた。その成果がワッペウス(Wappäus, Johann Eduard)の『統計学論』(1889年)、エンゲル(Engel, Ernst)の『統計学之神髄』(1894年)である。ドイツ社会統計学派は社会集団に対する全数調査から社会現象における法則性を解明しようとする立場であり、呉は他にもヨーン(John, Vincenz)、フォン・マイア(von Mayr, Georg)、ハウスホーファー(Haushofer, M.)などの文献を紹介している。また、ドイツ社会統計学の影響を受けたアメリカのマヨ・スミス(Mayo-Smith, Richmond)の文献を『社会統計学』(1900年)、『経済統計学』(1902年)としてわが国に翻訳紹介した。
  1889年に明治憲法が公布され、翌年には帝国議会が開かれることになった。呉は統計の仕事をもっと直接的に政治に反映させる道はないかと考え、横山雅男らとともに「経済統計社」を結成した。また、1890年に逓信省を辞して、居住していた麹町の区議会議員となった。しかし、1893年にまた官界に戻り農商務省属となった。この頃、数学者藤原利喜太郎と統計学の性格をめぐる誌上論争を行っている。藤原の主張は、日本には統計に従事する者はいるが統計学者はいない、また、歴史も浅く研究者も少ない統計は、数学のような「学問」の名に値しないというものであった。これは、統計学は社会科学の一分野であるとするドイツ社会統計学の影響を受けた呉には到底受け入れがたい主張であった。また、呉は1898年より岡松径の後任として慶応義塾で統計学を講義した。かつて塾生だったころ不首尾で退塾を命じられ、名誉回復したいと思っていた希望が叶った。この頃の慶応義塾の学風について次のように述べている。「前には破れた着物がよい、綺麗な着物ではいけぬという風であったが、今日では慶応義塾の人が都下第一の洒落者というようになった。これも奇なことの一つである。」
 呉は一時期、会計検査院属に転じるが、1898年に農商務省に戻り、同省に新設された統計課課長となって同省の統計様式の整備に努めた。1899年に「東京統計協会」と「統計学社」が共同で統計講習会を発足させ、以降十数年にわたり講師として全国各地に出張した。
  1895年に国際統計協会は日本政府に対し、1900年の世紀センサス(国勢調査)への参加を勧誘した。実施には至らなかったが、日本政府はアメリカの第12回国勢調査視察のために農商務省にいた呉を派遣することにした。呉は内閣統計審査官を兼任して、1900年5月にアメリカへ出張し、ヨーロッパを回ってその年の12月に帰国した。帰国後、呉は将来の国勢調査実施のために政党、議会、新聞社に精力的に働きかけ、国勢調査実施は世論であるという形にもっていくことができた。その成果により、1902年に呉が原案作成に関わった「国勢調査に関する法律」が制定され、第一回国勢調査を1905年に実施することが定められた。かつての正院政表課の杉や部下の官吏たちの長年の努力が結実することになった。しかし、日露戦争やその後の財政難により実施は延期されることになってしまった。
  1911年、呉は小倉市での統計講習会に出張中、脳溢血で倒れたがその後回復した。1913年から農商務省より統計に関する事務取り扱いを嘱託されたが、1918年9月に尿毒症を起こし死去した。わが国の第一回国勢調査は当初の予定より15年延期され、呉の死後2年目の1920年10月1日に国家的大事業として実施された。呉の四男である文炳によると、真偽は明らかでないが、「センサス」の訳に「国勢調査」という字を充てたのは呉文聡の発意であるらしい。(秋山美佐子)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 大内兵衛他編『呉文聡著作集』(全三冊, 日本経営史研究所, 1973-1974年)
<写真>慶応義塾写真データベース 福沢研究センター蔵