人名 星野 勉三
人名読み Hoshino Benzo
生年月日 1882/2/14 (明治15年)
没年月日 1966/4/28 (昭和41年)
出生地 栃木県(下野国那須郡太田原町)
専門分野  
解説

  星野勉三は、またの名を半六といい、論文も二通りの名前で書き残している。父も半六なので、襲名したのかもしれない。勉三は、1882年栃木県那須郡太田原町の酒造業を営む裕福な家に生まれた。祖父が福沢諭吉の「独立自尊」に共鳴し、孫の勉三を慶応義塾に学ばせたという。1896年に入学し、1903年に卒業している。卒業後は、ドイツへ私費留学し、ライプチッヒ大学やハレ大学(Halle Universitat)などで学んだ。ハレ大学より、博士号を取得している。帰国して1908年、慶応義塾大学部教授に就任した。
  授業は、マーシャルの『経済原論』をテキストに行なったと伝えられる。星野はイギリス経済学に偏らず、ドイツ歴史学派にも通じていた。ドイツ語の語学力は塾内一と言われていたらしい。しかし残した論文は少なく、著作は全く著していない。
  星野は、1915年父の死を期に、病弱を理由にして突然辞任する。後任は高橋誠一郎と小泉信三であった。辞職した本当の理由は、家族にも一切話さなかったらしい。四人の子供は全員が慶応義塾で学んでいるので、義塾に失望したわけではないようである。
  辞任後は大田原に帰郷し、星野産業銀行を興した。地元では有数の銀行であったが、1934年昭和恐慌のあおりを受けて倒産している。その後は酒造業に戻ったが、これも第二次世界大戦中の企業整備法によって廃業となった。代々裕福であった星野家は、勉三の代で一気に没落したことになる。
  戦後1954年には家屋を売却して、東京へ移った。晩年は静かに過ごしたようである。1966年東京で死去している。なお、勉三の子である星野醍醐郎は故人であるが、メンズファッション界の指導的地位にあっていくつかの著作を残した。(坂本慎一)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 野崎実「星野勉三教授のこと」(三田評論. 831号, 1982年),
三田商学研究会編『慶応義塾出身名流烈伝』(実業之世界社, 1909年),
<写真>慶応義塾写真データベース 福沢センター蔵