人名 阿部 泰蔵
人名読み Abe Taizo
生年月日 1849/4/27 (嘉永2年)
没年月日 1922/10/22 (大正11年)
出生地 愛知県
専門分野  
解説

  阿部泰蔵は、明治生命の創立者であり、小泉信三の妻・富子の父にして、作家・水上瀧太郎の父でもある。1849年4月27日、三河国八名郡下吉田村(現・愛知県南設楽鳳来町下吉田)に医業を営んでいた豊田鉉剛の四男として誕生した。1860年には吉田藩の医師である阿部三圭の養子となり、阿部姓を襲っている。
 阿部は子供の頃から、漢詩を小野湖山に、経学を古賀精里門下の斎藤拙堂に学んでいる。小泉信三は、後に至るまで阿部が高い漢学の素養の持ち主であったと言っている。その後、阿部は橋本一斎に蘭学を学んだ。
 1864年江戸に出て、開成所教授・杉田玄瑞に蘭学を学んだ。1866年には穂積晴軒、中島三郎助に蘭学を学び、さらに青地信教の英学の塾に入った。しかし翌年に青地信教の英学塾が閉塾したので、別な英学塾を探すことになった。
 1868年1月、阿部は鉄砲洲の福沢塾に入塾した。翌年から歴史会読、窮理書素読を担当し、童子局の監督を任じられている。この頃の慶応義塾はお互いに教えあう形式を取っていたので、阿部も学びながら教えていたようである。
 阿部は1870年11月23日、太政官から大学出仕の辞令をうけ、南校で教鞭をとった。さらに文部少教授、編輯権助などを歴任し、文部省六等に出仕した。1875年に一度、文部省を退官している。
 1870年に一度帰郷して幾野と結婚したが、この妻は4年後に夭折している。阿部は1877年7月に俣野景明の娘・優子と再婚した。
 阿部は1875年11月に、慶応義塾教授となった。1876年4月には教育制度視察のため、文部省よりアメリカ行きを命じられる。カナダも視察し、翌年1月に帰国した。その後、
 再度文部省に入省するが、すぐに退官している。1879年には、交詢社社則の起草にも参加した。後に『交詢雑誌』の校閲も担当している。1881年には、慶応義塾理事委員にも選ばれた。
 1879年12月から、荘田平五郎、小泉信吉らと共に保険創設について協議し始めた。1881年2月には慶応義塾内の生命保険創設主任に推されている。1881年7月には、明治生命開業第一次取締役会において頭取に選ばれた。
 明治生命開業ののち、阿部は数十回にわたって日本各地を巡回している。地方の有力者に保険加入を薦めるためである。阿部の精力的な地方巡回は、明治生命の営業成績を伸ばしただけではなく、日本各地に保険の概念を広める役割も果たした。
 1888年5月、火災保険創設に関する第一回会合を明治生命本社内において開いた。9月28日に火災保険会を設立し、幹事となった。1891年1月19日には、明治火災保険株式会社の取締役会長に就任している。以後、生命保険のみならず、火災保険の普及・発展にも尽力した。
 1889年には慶応義塾評議員に選ばれ、死去まで在任している。福沢の死後、1902年11月には慶応義塾財務委員にも選ばれている。1907年5月には、慶応義塾法人化により理事に就任した。1911年4月には、慶応義塾評議会会長に就任している。阿部は、人生の後半において主に保険業界で働いたが、生涯にわたって慶応義塾と縁が切れることはなかった。
 1891年8月、東京倉庫(現・三菱倉庫)の取締役に就任、1897年7月には取締役会長となった。このように阿部は財界で様々な要職を兼任している。
 1893年には、伊藤内閣より法典調査会査定委員を仰せ付けられた。1897年に再度、第二次松方内閣より同じ公職を引き受けている。阿部は政界からも篤い信頼をうけ、その活躍は財界の枠内に留まるものではなかった。
 1905年には、阿部は生命保険会社協会評議員会会長に推された。1907年9月26日には勲五等雙光旭日章を授けられ、1908年12月には社団法人生命保険会社協会初代理事会会長に就任している。長年の保険業界における活躍が評価され、この頃には保険業界の重鎮になっていた。1915年11月、大正天皇より正六位に叙せられ、1918年12月には、勲四等旭日小綬章を授けられた。
 1917年に明治生命取締役会長を辞任し、1917年には生保協会理事会会長も辞任して名誉顧問になった。1922年には、明治火災保険取締役も辞任し、老境に入った。
 阿部は1924年10月22日午前7時30分、白金の自宅にて死去する。死因は老衰であった。彼は特旨を以って従五位に叙せられた。
 1978年、日本における保険普及の業績が認められ、オハイオ州立大学校内にある保険殿堂(Insurance Hall of Fame)に阿部の肖像画が飾られた。今日でも阿部についての研究は多い。(坂本慎一)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 明治生命保険相互会社編纂『阿部泰蔵伝』(明治生命保険相互会社, 1971年)
<写真>慶応義塾写真データベース 福沢研究センター蔵