|
人名 |
麻生 義一郎 |
人名読み |
Aso Giichiro |
生年月日 |
1866/6/26 (慶応2年) |
没年月日 |
1941/4/20 (昭和16年) |
出生地 |
茨城県 |
専門分野 |
|
解説 |
麻生義一郎は、1866年6月26日茨城県猿島郡長田村にて、麻生貫一郎の子として生まれた。1883年6月には『明治新撰扶桑詩史』を、1884年1月には『秋場桂園浴泉余詠』を出版している。両書とも漢詩の詩集であり、「例言」など解説も全て漢文である。学生時代は文学の好きな青年だった。彼は、慶応義塾大学部を1889年4月に卒業した。 卒業して半年後、大阪毎日新聞に入社している。しかし1892年11月、父の死に伴って、大阪毎日新聞を辞職し、帰郷している。家督を継ぎ、少しの間は静かな生活を送ったようである。 麻生が毎日新聞時代に日本生命保険のために書いた一文が、有力者の目にとまり、1894年夏頃、毎日新聞の後援者であった豊永長吉が、東京の日本橋に麻生を呼び出した。京都西本願寺を背景とする生命保険会社を創設するためである。麻生は、上京して保険の勉強を開始した。 1895年4月15日に真宗信徒生命保険会社が開業した。開業当時は、麻生が以前に数年間下関にいた関係もあって山口県に行き、募集を行った。真宗の信者が多い土地柄もあり、多くの申し込みを得た。その後、丹後や丹波でも募集を行ったが、それほど業績は上がらなかったという。 1900年2月に麻生は農商務省から保険業視察の命を受け、渡欧した。1902年4月に帰国するまで、いくつかの万国会議に出席するなど、留学は充実していた。 麻生は、1904年3月に、真宗信徒生命保険を退職する。おりしも、生命保険会社の合併が全国規模で多く行われていたことが原因の一つらしい。麻生は千代田生命にアクチュアリーとして入社する。 1905年と1907年、麻生は「商工事情」という講義を慶応義塾大学部理財科で担当した。今日で言う非常勤講師だったようであるが、授業の様子などは伝わっていない。 1915年には、千代田生命の監査役に就任した。当時は第一次大戦後の反動不況やスペイン風邪の流行、関東大震災や昭和恐慌など保険業界にとって重要な事態が頻発していた。麻生は、保険に関する世間の誤解を解いたり、欧米における保険のあり方を紹介したりするなど、さまざまな言論活動を行なった。 1939年3月には、それまで記した保険に関する論文を集めた『保険文集』を出版した。1941年に千代田生命の監査役を退任し、同じ年に死去している。(坂本慎一) |
|
旧蔵書 |
|
出典 / 参考文献 |
麻生義一郎著『保険文集』上,下巻(麻生義一郎, 1939年) <写真>慶応義塾出身名流列伝 |