人名 堀切 善兵衛
人名読み Horikiri Zenbe/Yoshibe
生年月日 1882/5/4 (明治15年)
没年月日 1946/11/25 (昭和21年)
出生地 福島県
専門分野 経済原論,財政学,商業政策,殖民政策
解説

  堀切善兵衛は、1882年5月4日、福島県岩代国信夫郡飯坂町にて、堀切良平の長男として生まれた。子供のころから利発な少年であったと伝えられる。1899年に、慶応義塾大学部に入学、理財学会発起人総代や学生の幹事にも就任し、活発な学生生活を送り、1904年に最優等の成績で理財科を卒業した。翌年、義塾による第2回の留学生として経済学専攻のために海外に派遣され、ハーバード大学、ケンブリッジ大学、ベルリン大学で学び、4年後の1909年に帰国している。このころ、義塾では教授をお雇い外国人に頼るのではなく、卒業生を留学させて、最先端の講義を担当できる教員に育成しようと考えられており、この留学は、そのためであった。
  理財科の教壇に立ったのは1910年からで、ドイツ語、経済原論、植民政策などを担当し、すぐに主任に抜擢されている。同じ年に堀切の処女作にして代表作である『殖民と経済』を出版した。この書は、堀切によると「仏のボリュー、独のチンマーマン、及び合衆国統計局長オースチン」の影響を受けている。また、植民地を「本国以外に存する土地人民の総合にして、その行政は本国より分離するといえども、なおある種の政治的形式により本国政府と結びつけられるもの」と定義しており、植民政策がどうあるべきか各国の事例なども紹介しながら議論している。堀切は当初から抽象的な理論よりは、こうした実際的な学問を志向していたようである。
  堀切は1912年5月に立憲政友会より衆議院議員選挙に立候補し、当選した。当時満30歳と13日での当選は、最年少であり、最高得票でもあった。この時期は、教授と政治家という二足のわらじを履いていたようである。それでも政治家としての活動も活発で、1913年には万国議員会議に参列するため渡欧の旅に出発し、アメリカを経由して帰国している。
 1914年三田演説会において、堀切は「排日問題の真相」と題する演説をした。アメリカ・カリフォルニア州における排日問題をとりあげ、将来アメリカと戦争にならないように警告している。そのためには軍備拡張よりは、大学教授の交換や宗教家の往来、親善野球やマスコミを通じた日本の宣伝などを提唱し、反日感情の緩和をはかるべきであると説いていた。初期の堀切は、日本の国力増大に多大な関心を持っていたが、軍備だけに偏った拡張には反対し、経済力の増強を重視すべきであると説いていた。
  1917年には教授の職を辞任して、政界での活動に専念するようになる。1918年には大蔵相秘書官、1921年には高橋内閣において大蔵省参事官兼首相秘書官を歴任している。1924年には農商務省参事官を務めた。1928年には政友会常議員を務め、1929年には川原茂輔議長の死去を受け、衆議院議長に就任している。議長は政争により短期に終わったが、堀切が政界で重要な役割を果たしていたことは間違いない。
  こうした政治活動の合間にも活発に政治的発言を行い、政局や世相に対して様々な提言を行っている。政治家となってからの発言は、インフレーションや金解禁に関する議論など具体的なものが多く、経済学説を説くようなものは見あたらない。またこの時期の作品は、自分で執筆したものではなく、対談録や講演録のような形式も多い。堀切は社会主義や共産主義を批判し、英米追従も否定する。独伊のファッショにも疑問を提示し、日本独自の路線を主張していた。経済政策に関しては、積極財政によるインフレ主義者だったようである。
  1938年の講演「時局認識の根本義」では、堀切は当時の日中戦争を「聖戦」であると言っている。堀切は、日本の大陸進出を正当化し、日本が黄色人種の地位向上のために戦っていると認識していた。今日では国を富ましてから兵を強くするのではもはや間に合わないと主張し、初期のころとは変化して積極的に軍拡を主張していた。
  1931年大蔵省政務次官を務めたあと、1940年には駐伊大使に就任している。これは当時、外交政策の刷新をはかっていた松岡洋右外相による抜擢である。翌年には勲一等瑞宝章叙勲の栄誉を受けている。その4ヶ月後、若き堀切が警戒した日米開戦の事態になった。
  1942年には特派大使として欧州に2年駐在し、帰国後1945年には貴族院議員に勅選されている。しかし1946年8月には、公職追放となり、1946年11月25日、胃潰瘍のため65歳で死去している。『時事新報』に掲載された死亡記事は、堀切を「前特命全権大使」と紹介している。
  堀切の教授時代の専門は植民政策論であった。現在は日本の植民地自体が敗戦により失われたため、彼の学問的業績も忘れられた存在となっている。(坂本慎一)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 堀切善兵衛『殖民と経済』(隆文館, 1910年),
慶応義塾編『慶應義塾百年史』(慶応義塾, 1958-1969年),
三田商業研究会編『慶応義塾出身名流列伝』(実業之世界社, 1909年)
<写真>慶応義塾出身名流列伝 福沢研究センター蔵