人名 中上川 彦次郎
人名読み Nakamigawa Hikojiro
生年月日 1854/8/13 (安政元年)
没年月日 1901/10/7 (明治34年)
出生地 大分県
専門分野  
解説

  1854年(安政元年7年)8月、大分の中津藩士中上川才蔵と婉(福沢諭吉の姉)との間に長男として生まれる。11歳の頃に漢学を習い、13歳の頃には藩校の進修館の講師となった。その後、大阪に出て緒方塾の山口良蔵のもとで英語を学び、1869年14歳のとき上京して新銭座の慶応義塾に入学し、叔父福沢諭吉宅に寄寓した。2年後に卒業して中津藩の洋学校で教師となったが、1872年17歳のとき父の死去により家督を相続して一家で上京し、三田の慶応義塾で英学の講師となった。一時期、宇和島藩立洋学校の校長兼英語教師として勤めたが、このとき福沢は中上川宛の書簡で、学問を修めた人間は役人や雇われ教師などの小成で満足するのではなく実業界に進出すべきであると説いている。中上川は再び慶応義塾の講師となり、チャンブル(チャンバース: Chambers, William and Robert)の著書を『地理略』(1873年)として翻訳したものは慶応義塾の世界地理の教科書となった。
  1874年20歳のとき福沢の援助により英国に留学した。小泉信吉(後の慶応義塾塾長である小泉信三の父)とともにロンドンに下宿し、海外調査のためロンドンに長期滞在していた元老院議官・三井家最高顧問の井上馨の知遇を得た。井上は中上川の才覚を認め、この出会いが中上川の人生の転機となる。
 3年後に留学から帰国し、再び慶応義塾の講師をしながら福沢が慶応義塾出版社から創刊した『民間雑誌』に執筆し、編集長も務めたが、この雑誌はまもなく廃刊となった。1878年7月、工部大臣となっていた井上に誘われて工部省に入省し、井上の秘書官となった。翌年、福井藩士江川常之助の長女勝と結婚し、また、井上の移動に伴って外務省に入省した。公信局長に就任し、その後、権大書記官に昇進したが、1881年の政変で外務兼大蔵大臣の大隈重信が失脚したことに伴い、外務省を辞した。1882年3月、福沢の『時事新報』創刊に伴い、発行元の慶応義塾出版社(後に時事新報社と改称)の社長兼主筆となった。
 1887年4月32歳のとき時事新報社を退社し、井上馨の紹介により山陽鉄道会社社長となった。翌年、山陽鉄道の神戸‐明石間を開通させた。1890年には神戸‐尾道間の線路敷設がほぼ竣工したが、同社の大株主や重役であった関西の資本家たちは短期的な利益に重きを置いたため、中上川の遠大な事業計画を阻止するようになった。
 1891年8月37歳のとき中上川は山陽鉄道会社を辞し、井上馨の推薦により不振の三井銀行再建のため理事として送り込まれた。彼は三井鉱山会社理事、三井物産会社理事、三井呉服店調査委員、鐘淵紡績会社副社長も兼務した。当時、1890年から始まった経済恐慌により銀行業界では経営破綻、支払停止、取付が相次ぎ、三井銀行京都支店でも取付が起きていた。三井銀行は、1882年の日本銀行設立に伴い明治政府から官金取扱い停止を要求されており、1886年までの好景気に勃興した企業に対する不良貸付は貸出金総額の三分の一に達していた。
 中上川は1892年2月、実質上の頭取である三井銀行副長に就任し、不良債権の整理と、地方支店・出張所の閉鎖に着手した。まず人事権を行使し、藤山雷太、武藤山治、波多野承五郎、和田豊治、朝吹英二、鈴木梅四郎、平賀敏、藤原銀次郎、池田成彬ら慶応義塾で福沢諭吉の薫陶を受けた若者を入行させた。中上川は業務の遂行にあたって金融原則を徹底せよと指導しただけであとは当人たちの自由な才覚に任せ、成果主義で当時の官吏に匹敵する十分な給与を与えた。中上川は部下を使って、「信長以来の仏敵中上川」と言われながらも、大口の不良債権であった東本願寺への貸金百万円の回収に成功した。陸軍中将(後の首相)桂太郎が債務を返済できなかったときは、邸宅を抵当流れにして処分した。当時首相であった伊藤博文が京都を訪れたときに三井銀行京都支店に寸借を申し込んだが、担保があることを証明できないという理由で断った。伊藤博文は伊藤内閣の内務大臣であった井上馨の盟友であった。中上川は福沢諭吉の実業論に基づき、官尊民卑、薩長土肥の藩閥全盛の時代に「文明の実業」を確立して実業家の地位を向上させようとした。彼は1899年に神戸での慶応義塾出身者同窓会で「実業の武士道化」と題する講演を行い、次のように述べている。「文明的実業家として闊歩するためには、従来の卑屈、虚言、権謀術数を弄するがごときことは絶対に排斥して、正義の観念に基き、武士道によって終始せねばならぬ。」
 不良債権回収を成し遂げ、銀行の合理化に成功した中上川は、三井資本を工業資本に転化する工業主義の方向を打ち出す。彼は鐘紡、王子製紙、芝浦製作所(現在の東芝)、前橋絹糸紡績、富岡製作所、北海道炭鉱などの生産事業を三井傘下に収め、自分が採用した人材をこれらの事業体の責任者として派遣した。彼らは後に三井傘下の実業家として大成し、三井財閥発展の基礎を築いた。
 1893年7月、三井銀行・三井物産・三井鉱山・三井呉服店の4社が合名会社化したことに伴い、中上川は副長から常務理事となった。また11月には、三井家の最高議決機関「三井家同族会」と、三井家の全事業を統括する「三井元方」が設置された。1894年10月、「三井元方」に工業部と地所部が設置され、この改変に伴って中上川は常務理事から専務理事となった。また、1898年11月には、三井銀行の中央集権化を図る「三井銀行営業規則」が定められた。しかし、中上川の工業資本路線は、総合商社三井物産を率いる益田孝の商業資本路線と対立するようになった。
 1900年の春から翌年にかけて、日清戦争後の反動恐慌が起こり、銀行の経営破綻、支払停止、取付が相次いだ。このとき既に中上川は腎臓病を患っていた。また、1900年の4月から6月にかけて、新聞『二六新報』が連続記事で三井一族の奢侈乱脈生活を糾弾する三井攻撃キャンペーンを行った。最終回では、三井一族の乱脈生活を阻止しない中上川や慶応義塾出身幹部に対して、「およそ今世の富豪貨殖家と称する者を見るにその気品甚だ高からざる者あるがごとし」(『福翁百話』)と福沢諭吉の名を借りて批判している。結局、井上馨が新聞社社長と三井一族の間に入り、人倫と資本主義精神に関わる「三井家家憲」を制定することで和解した。中上川の三井改革は、井上という後ろ盾があったからこそ実現したものであるが、その性急な改革は三井の内外に敵をつくり過ぎてしまった。1901年2月、福沢諭吉が死去した。この年、中上川は腎臓病が悪化して出社不能となり、10月に47歳で叔父の後を追うように死去した。
 中上川の10年にわたる三井財閥の近代合理化改革は工業資本主義という方向性を打ち出したが、それは殖産興業という国家の方針に先行するものであった。また、彼が採用した慶応義塾出身者たちは藩閥政商のやり方を乗り越えて福沢精神を産業界で実現し、わが国の近代資本主義の発展に寄与した。(秋山美佐子)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 白柳秀湖著『中上川彦次郎伝』(岩波書店, 1940年)
日本経営史研究所編『中上川彦次郎伝記資料』(東洋経済新報社, 1969年)
松尾博志著『近代三井をつくった男:企業革命家・中上川彦次郎』(PHP研究所, 1984年)
砂川幸雄著『中上川彦次郎の華麗な生涯』(草思社, 1997年)
<写真>慶応義塾写真データベース
福沢研究センター