人名 及川 恒忠
人名読み Oikawa Tsunetada
生年月日 1890/9/6 (明治23年)
没年月日 1959/1/10 (昭和34年)
出生地 岩手県
専門分野  
解説

  及川恒忠は、1890年9月6日、岩手県稗貫郡花巻町に生まれた。1908年に慶応義塾大学部予科第一学年に入学し、1913年に慶応義塾大学部政治科を卒業している。
 卒業して半年後、及川は慶応義塾大学部で助手に採用された。1917年、義塾留学生に選ばれ、中国へ出発した。彼は留学先から数回にわたって義塾へ手紙を書いており、『三田評論』はその一部を掲載している。及川は、上海では了公という「日本でいえば古武士風な風格を持つ」(「及川教授の学風を偲ぶ」)人物のもとに寄寓した。上海や北京で2年ほど学んだ後、フランスへ渡って更に1年間勉学に励んだ。1920年に帰国したが、留学中は特定の人物の指導は受けず、自由に研究したという。
 帰国後、法学部で「支那法制論」、経済学部においては「支那経済事情」の講義を担当した。今泉孝太郎によれば、及川の講義は流暢で些かのよどみもなく、板書の文字も綺麗であった。語学に長じ、英語、フランス語、中国語を使いこなした。書道の腕もあったが、揮毫を極度に嫌ったので、書の作品はほとんど残っていない。
 1922年、法学部は機関誌である『法学研究』を創刊した。及川もこの創刊に尽力すること多大であった。以後、及川は『法学研究』に多くの論文を寄せている。
 及川の著作や論文の題名に「支那云々史」「中国何々史」とある場合、その内容はほとんどが清朝末期以降の中国現代史である。及川によれば、当時の日本ではまだ「現代史」という言葉が定着していなかった。彼はそれ以前の中国史には余り興味を示さず、論文や著作においても言及は少ない。及川は、漢籍を当然の教養としていた、それ以前の世代の中国研究者とは異なっており、漢籍の素養も余り豊富ではない。しかし孔子の教えは、現代の中国研究においても、なお重要であると主張している(「孔子教」)。
 及川は、当時の中国の政治制度や社会情勢に明るく、その詳細を日本に紹介する作品を多く書いている。2番目の著作となる『支那政治組織の研究』(1933年)は、学界においても高く評価された。孫文の三民主義や毛沢東の『実践論』なども、論文によって随時紹介している。及川は中国の社会主義思想や共産党の活動について、最も詳しい日本人の一人であった。しかし及川自身は、社会主義思想と一線を画している旨を明言している。歴史記述についても、マルクス主義史観のあからさまな影響は見られない。
 1926年頃、慶応義塾では望月軍四郎の寄付により「望月支那研究基金」が設けられたが、及川はその運営者として研究を指導した。自身もこの基金によって中国に渡り、慶応義塾は当時の中国関係の書を豊富に購入することができた。その量は当時、他大学を圧倒していたと言われている。
 及川は1942年、法学部長に就任した。敗戦後も研究を続け、『中国政治史』(1952年)を出版している。慶応義塾評議員も務めたが、晩年は喘息になり、胃腸も患った。及川は1959年1月10日に死去した。翌1960年、『法学研究』は33巻2号を「及川恒忠先生追悼論文集」とし、主に法学部所属の後進の学者が論文を寄せているが、経済学部所属の学者は、この追悼号に論文を書いていない。
 今日、清朝末期以降の激動期の中国については日本でも多く研究されているが、これを同時代において日本に詳しく紹介した及川の業績は、まだ本格的な研究対象にはなっていない。(坂本慎一)

旧蔵書 及川文庫(慶応義塾大学三田メディアセンター所蔵)
出典 / 参考文献 「及川恒忠先生追悼論文集」(特集号)(法学研究. 33巻2号, 1960年),
<写真>慶応義塾写真データベース 福沢研究センター