人名 小野 英二郎
人名読み Ono Eijiro
生年月日 1864/7/26 (元治元年)
没年月日 1927/11/26 (昭和2年)
出生地  
専門分野  
解説

  1864年6月、筑後柳川藩士小野作十郎の長男として生まれる。1880年、同志社英和学校に入学し、新島襄より洗礼を受けた。卒業間近の1884年、徴兵を逃れるために留学を希望し同志社を退学した。同年渡米し、オハイオ州オベリン大学文学科に入学した。卒業後の1887年、ミシガン大学大学院に進学し、著名な財政学者であるH. C. アダムス(H. C. Adams, 1851-1921)に師事し、経済学・財政学を修めた。1889年に帰国し、一時期、柳川の橘蔭学館の教頭を務めた。1890年2月、明治期の日本の産業革命に関する博士論文“The Industrial Transition in Japan”(「日本における産業の変遷」)によってミシガン大学から博士号を授与され、この研究はアメリカにおいて出版された。同年11月、新島襄の遺志により、理財学教授として同志社に迎えられ、同志社予備校及び普通学校でも教えた。1892年、同志社内に同志社政法学校が開設され、同校の初代教頭兼教授となる。しかし当時の反キリスト教的風潮の影響を受けて学生が集まらず、経営は苦しかった。そして小野は1895年から慶応義塾大学理財科の最初の銀行論貨幣論担当者となり1900年まで務めた。1896年、小野はH. C. アダムスと合著で『公債論』を公刊した。その2年前、日清戦争の勃発にあたり、明治政府は緊急勅令で軍事公債を募集していた。当時の国際情勢において、我が国は国富を増進し陸海軍を増強しなければ平和を担保することはできない。そのための財政整理の手段が著された。
  小野が論文を執筆するようになったのは専ら銀行家として活動するようになってからである。1896年5月、小野は川田小一郎日本銀行総裁に勧められ、同志社を辞して日銀に入り、大阪支店副支配人となった。その後、本店検査局長を経て、1906年8月よりニューヨーク代理店監督役、1908年11月よりロンドン代理店監督役を務め、1911年6月に帰国し本店営業局長となった。1913年2月、日銀の組織変更に伴い日本興業銀行に移り、副総裁となった。1914年に勃発した第一次世界大戦によって日本は紡績業、鉱業、電気事業、鉄道事業など大工業を中心とした投資が活発化し好景気を迎えた。しかし戦争終結後、既に1920年5月には恐慌となり、財界は金融難に陥り整理の時期を迎えた。小野は副総裁だった頃、対中国借款のために中国を三度訪れている。彼は1922年の「支那視察談」において、日本人が今後世界で文明指導の任務を果たすには、中国の文明にも貢献し、中国人と調和していかなければならないとして、「日本は東洋の諸国に向って、日本からその文化を興して行く丈の気概を持たなくてはならぬ、左なくしては到底私は日本の国威を高め世界の人の尊敬を受くるところの国民には成り兼ねると思います。」と述べている。
 1923年2月、小野は第四代興銀総裁となり、日仏銀行副総裁、共立鉱業会長、東亜興行取締役、中日実業取締役も兼務した。その年の9月1日、関東大震災が起きた。再び経済界は大打撃を受け、会社の解散や合併による財界整理が切実な問題となった。幸いに震災の翌年から金融は次第に緩和し、1925年頃には主な工業会社の整理は一段落した。大震災によって関東地方の中小工業は全滅の惨状を呈したが、興銀および各銀行がその救済に努力して、概ね復興することができた。未曾有の国難に際し、小野は我が国経済の将来の発展のための希望を論文で次のように述べている。大工業の大量生産を可能にするためには、国内の市場だけでは小さすぎるため、外国貿易の振興によって海外にも市場を拡大しなければならない。また、国の産業を興すためには、資本を衣食住の贅沢に空費するのではなく、鉄道事業、水力電力事業の完備、商業組織の改善など、産業開発の基礎となる堅実な事業に投下していかなければならない。
  1927年3月、関東大震災後に支払いを猶予された震災手形の処理をめぐる議会審議の紛糾や大蔵大臣片岡直温の失言が直接の契機となり、金融恐慌が起こった。取付が全国の銀行に波及し、多数の銀行が休業に追い込まれたが、大蔵大臣高橋是清の支払猶予(モラトリアム)令によって危機は回避された。この休業銀行の中に宮内省の銀行である第十五銀行が含まれていた。第十五銀行の破綻は川崎造船への融資焦げつきによるものであった。川崎造船の救済は海軍の強い要望でもあった。高橋蔵相による第十五銀行再建案には、興銀の川崎造船への救済資金融資が含まれていた。しかし、政府がいつものように新規興銀債券の発行を引き受けて融資資金を援助したとしても、融資が回収不能になればその損失は興銀の損失になる。小野は川崎造船への救済融資を拒否し、その旨を6月に政府に伝えた。政府の閣議内でも反対が起こり、この再建案は結局失敗に終わった。その年の11月16日、小野は興銀で執務中に倒れ、26日に死去した。小野英二郎の三男で横浜正金銀行サンフランシスコ支店副頭取を務めた英輔の長女、洋子がオノ・ヨーコである。
  (秋山美佐子)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 <写真>『銀行通信録』75巻447号より引用
鏑木路易「同志社出身の興銀総裁小野英二郎」(新島研究. 88巻, 1997年)