人名 三辺 金蔵
人名読み Sanbe Kinzo
生年月日 1881/3/7 (明治14年)
没年月日 1962/4/25 (昭和37年)
出生地 神奈川県
専門分野 会計学
解説

  三辺金蔵は、1881年3月7日神奈川県足柄下郡にて三辺惣吉の長男として生れた。なぜか戸籍上は、翌年同日に届けたことになっている。生家はかつて裕福であったが没落したため、金蔵の勉学に対して父の理解は薄かった。彼は一人家を出て、肉体労働で学費を稼いだ。立教中学を卒業した後、1908年に28歳という晩学で慶応義塾大学部理財科を卒業した。
 卒業後すぐに助手として採用され、商工学校で「英語」と「簿記」の講義を受け持ち、翌年には予科で「経済原論」、1910年には本科で「商業学研究」を講義した。1912年には、慶応義塾留学生として欧州へ出発した。初め1年間はロンドンで、ウェッブ(Webb, Sidney)などに学んだ。翌年8月にはベルリンへ行き、ワグナー(Wagner, Adolf)、シュモラー(Schmoller, Gustav)、ゾンバルト(Sombart, Werner)に学んだ。1914年8月14日、第一次世界大戦勃発の際には、日本がドイツに最後通牒を発したと同時に、小泉信三らとドイツを脱出した。ヨーロッパ滞在の時期をほとんど共有したということもあって、小泉とは生涯親友であった。その後、再びロンドンで学んだが戦時下ということもあり、書籍が入手困難で苦学した。
  1915年欧州留学から帰国し、2ヶ月後に理財科教授に就任した。三辺は「会計学」や「経済政策」の講義を担当した。慶応義塾大学部で初めて「会計学」を講義したのは三辺である。当初は教科書がなかったので、ノートで講義したと伝えられる。
 その後は、会計学や経済学説史について精力的に執筆した。1918年に書いた「会計学とは何ぞや」において、会計学を「正確明瞭なる貸借対照表と損益表の要件たる各項目の評価原則と其記載方法とを研究する規範学なり」と定義している。この定義は、1930年に出版した『会計学』においても、全く変えていない。三辺は会計学的観点から経済学説史にも興味を持ち、特にケネー(Quesnay, Francois)の経済表には多大な関心を寄せた。
  三辺によれば、会計学などの知識は、囲碁の定石や数学の公式のようなものであるという。これらを学ばなければ、財務状況の把握は全くの我流に陥ってしまう。しかしこれらを学ぶだけでは応用が利かず、形式だけのものとなる。簿記などの諸方法は、練習を重ねることによって背後に潜む原理を会得することが大切であると主張している。財務状況を把握する最終的な巧拙は、個人が長い経験によって得た鑑識眼によって決まると三辺は考えていた(『財務諸表分析』1951年)。
  三辺は、1925年には『近世簿記講義』を出版した。1930年には経済学部長に就任し、翌年経済学博士の称号を受けている。1935年には学生局主任主事に就任したが、学生を愛し、非常に面倒見の良い先生であった。学生だけではなく近所の人にも親切で、馴染みの魚屋が独立した時、一緒に何軒かの知り合いに挨拶に行くほどであった。小沢愛国は三辺を評して「人を活かすことを知って人を落とすことをしない典型的な紳士であり、人情家でもあった」(「三辺金蔵博士の面影」)と言っている。経済理論においても「失業問題」と題する講演では、失業は失業者個人の欠点によるものではないと強く主張した。三辺は、著作や論文において自らの信仰を前面に押し出すことはなかったが、生涯に渡ってクリスチャンであった。
 1944年には慶応義塾大学名誉教授になり、同年立教大学総長に就任している。この職は、戦時下にあって引き受ける者がいなかったので三辺が快諾したと伝えられる。しかしこの総長就任が原因となって、戦後は一時公職追放となった。追放が解除された1952年には慶応義塾大学経済学部に復帰し、のちに慶応義塾学事顧問も務めた。1955年には千葉商科大学商経学部長も兼任した。
 三辺は1962年4月25日に死去し、28日に港区栄町日本聖公会聖アンデレ教会にて葬儀が行われた。長男の三辺謙は、後に慶応義塾大学病院長や慶応義塾大学医学部長などを歴任した。三辺謙の妻・文子は小泉信三の姪に当たる。
 今日の会計学史研究において、三辺の名が登場することもあるが、詳しい研究はまだ存在しない。三辺が欧州からもたらした会計学の知識が、会計学史上どのような意義があるか、今後の研究が待たれる。(坂本慎一)

旧蔵書 三辺文庫(慶応義塾大学三田メディアセンター所蔵)
出典 / 参考文献 三辺金蔵著『会計学を索ねて』(税務経理協会, 1896年),
三辺金蔵著『財務諸表分析』(春秋社, 1951年),
三辺金蔵著「会計学とは何ぞや」(三田学会雑誌. 12巻7号, 1918年), 三辺金蔵著「伯林より倫敦へ : 大戦当時の思出」(三田評論. 506号, 1939年),
小沢愛国著「三辺金蔵博士の面影」(三田評論. 605号, 1962年),
三辺謙著「三辺金蔵」(別冊太陽. 日本のこころ; 30, 1980年),
慶応義塾編『慶応義塾百年史 別巻(大学編)』(慶応義塾, 1962年),
<写真>慶応義塾経営学会編『経営会計研究 : 三辺金蔵博士謝恩記念論文集』より引用
福沢研究センター蔵