人名 |
宇都宮 鼎 |
人名読み |
Utsunomiya Kanae |
生年月日 |
1865/9/12 (慶応元年) |
没年月日 |
1934 (昭和9年) |
出生地 |
新潟県 |
専門分野 |
貨幣論、銀行論 |
解説 |
宇都宮鼎は、1865年9月12日に新潟県で、宇都宮綱紀の次男として生まれた。1893年には海軍主計官としてドイツへの留学を命じられた。初めはゲッティンゲン大学に学び、1897年にはベルリン大学で「ドクトル・フィロソフィ」の学位を受けた。日本人でベルリン大学より同学位を受けたのは、宇都宮が最初である。彼はその後、ドイツ海軍省やキール軍港諸官庁で働いた。ドイツ皇帝の許可を得てドイツ海軍に入った日本人は、他に例がなかったという。 宇都宮は1899年に帰国した。本職は海軍主計官であったが、翌年10月より早稲田大学政治経済学科、法学科において「財政論」や「公債論」の講義を担当した。1901年から1903年まで、慶應義塾大学部理財科では、「貨幣論」「銀行論」の講義を担当している。その後は、早稲田大学専門部政治経済科において「公債論」「歳出歳入論」、法律科・行政科において「公債論」「財政学」などの講義も行った。他にも海軍大学、海軍経理学校、東京高等商業学校、学習院でも教鞭をとった。 宇都宮は軍人としては、海軍省経理局や海軍大臣官房に勤務し、1904年の日露戦争の際には、これに参戦している。また海軍省政府委員として、議会における外交の任に当たった。その後は、呉海軍経理部長も務めた。 1913年には海軍主計総監になり、同じ年に主著『財政学』を刊行している。1915年には病により海軍予備役を仰せ付けられ、その後は主に早稲田大学で教鞭をとった。1926年には早稲田第二高等学院第二院長に就任している。この職には死去の直前まで在職していた。 宇都宮はマルクス主義を厳しく批判し、第一次世界大戦におけるドイツの敗北は、この思想によってドイツが唯物主義に傾いた結果であると分析している。彼は民衆による「質実剛健の気象(ママ)」を重視し、当時の新興勢力であるイタリアのムッソリーニやスペインのプリモ=デ=リベーラに関心を持った(「ルーア戦に惨敗したる独逸」1924年)。日本の金解禁政策においてもムッソリーニの政策を大いに参考にすべきであると説いた(「再び金輸解禁問題に就て」1929年)。また最晩年には満州事変にも注目し、国民と陸軍の意思疎通が不十分であるとの認識も持っていた。当時はこの事件を余り特別視するべきではないとする意見もあったようであるが、宇都宮はこれを否定し、「我が現状は実に建国以来稀に見るの非常時」であると主張していた(「我が非常時財政に就て」1932年)。 宇都宮は早稲田大学では蹴球部長を担当し、学生と一緒に合宿をするほど熱心であった。軍事教練の野外演習でも学生と寝食を共にして、非常に慕われたという。豪放な武人肌である一方、文章は綿密で推敲に推敲を重ねないと満足しない人であった。 宇都宮は1934年、病により死去した。宇都宮の著書について、生前はいくつかの書評があったが、現在、彼についての研究はほとんど存在しない。(坂本慎一) |
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旧蔵書 |
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出典 / 参考文献 |
坂井新三郎著『越佐名士録』(坂井新三郎発行, 1936年) |