人名 渡辺 亨
人名読み Watanabe Toru
生年月日 1867/9/22 (慶応3年)
没年月日 1933/10/13 (昭和8年)
出生地 千葉県
専門分野 商工事情
解説

  渡辺亨は、1867年9月22日千葉県において、渡辺紋右衛門の長男として生まれた。上京して東京専門学校(後の早稲田大学)に入学し、1886年法律学科を卒業している。当時の同校を振り返って、彼は「学生が七八十人で先生が十人位の私塾のやうであった」と言っている(「茗荷畠を繞した創草期の学園」1925年)。
 卒業後は、日報社勤務を経て、1895年に東京株式取引所の書記になった。1897年には同取引所の副支配人になり、1899年に書記長、1903年には理事に就任した。
 1906年には、万歳生命保険会社株式設立に参画し中心的役割を果たした。同じ年、慶応義塾大学部理財科で「商工事情」の講義を担当している。今日でいう非常勤講師だったと思われる。この年には、早稲田大学の永楽倶楽部設立実行委員にも就任し、年末には東京株式取引所の理事を辞任している。
 また同じ年、渋沢栄一を相談役として営口水道電気株式会社が設立されたが、渡辺は取締役の一人として名を連ねた。創立総会における選挙の結果、渡辺が専務取締役となった。渋沢栄一とは、それ以後も早稲田大学維持員会などで接点を保っている。
 1915年、早稲田大学における永楽倶楽部の創立常任委員に就任し、9月には創立総会を開催した。この永楽倶楽部は、慶応義塾の交詢社を模倣して作られたものであると言われている。
 1917年、早稲田大学には「早稲田騒動」と呼ばれる内紛があった。この騒動は、直接的には天野為之と高田早苗のどちらを学長にするかで争われたものであるが、早稲田関係代議士や維持員、評議員、校友、教職員、学生を巻き込んで混乱し、早稲田大学創立以来最大の危機と言われた。騒動の真相は現在も不明な点が多いが、『早稲田大学百年史』によると、渡辺は維持員として大隈重信らと共に鎮静に尽力した。
 1922年には大隈重信死去にともなって、大隈記念講堂の建設委員になった。1932年には早稲田大学監事に就任している。しかし在任二年足らず後、1933年10月13日に急逝した。
 渡辺は、他に鬼怒川電気株式会社取締役も務め、主に実業界で活躍したが、今日では早稲田大学との関係でその足跡が語られることが多い。(坂本慎一)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 早稲田大学大学史編集所編『早稲田大学百年史』(早稲田大学, 1978〜97年),
東京株式取引所編『東京株式取引所五十年史』(東京株式取引所, 1928年)