人名 向井 鹿松
人名読み Mukai Shikamatsu
生年月日 1888/3/6 (明治21年)
没年月日 1979/6/3 (昭和54年)
出生地 愛媛県
専門分野 取引所研究・商業学・経営学
解説

  向井鹿松は1888年3月6日に愛媛県西宇和郡四ツ浜村において生を受けた。郷里の商業学校で勉学に励み、1909年9月に慶応義塾大学部理財科予科に入学する。卒業後、同塾理財科助手に採用され、1915-1917年にかけて同塾商工学校と予科で兼任講師を歴任した。その後、1919-1922年に海外留学を行う。渡航先はアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスであり、シカゴ大学、コロンビア大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス、ベルリン大学に於いて商業政策、取引所、商事経営学の研究に取り組んだ。留学時、ドイツでは経営経済学研究が活発化し始め、アメリカ経営学もその萌芽期にあった。したがって、向井は当時最新の研究分野についての輸入者となったのである。
 帰国後の1922年に慶応義塾大学教授に就任し、商事経営、商業政策、取引所論、経営経済学、貨幣銀行論、金融論特殊問題の講義を担当した。向井の専攻の中心は当初商業関係であったが、後に経営学も対象とし、また同時に、取引所論を中心とした商業・経済学研究を進展させた。『取引所の理論的研究』(1926年)、『配給市場組織』(1928年)、『経営経済学総論』(1929年)、『綜合取引所論』(1932年)等はその代表的成果である。又、同郷の先輩である滝本誠一と共に『日本産業資料大系』十二巻(1926-1927年)の編纂を行い、更に、満州、シナ、イギリス、フランス、アメリカに渡航して経済事情視察を行い(1928-1930年)、当時の合理化気運を積極的に推進した。
 以上の様に、向井は多彩な研究・教育活動を通して、商業・経営学という、当時に於ける新分野の開拓者の一人となった。これらの研究活動の一環である総合取引所論研究が認められて、1934年に慶応義塾大学から経済学博士の学位を授与されている。しかし、新学部(商学部)分離問題が起こると、これを契機として1937年に慶応義塾大学を退職し、名古屋商工会議所に移っている。
 戦後、向井は官庁に入り、物価庁の部長職を経た後、東洋大学、中央大学、愛知学院大学、千葉商科大学、横浜商科大学に於いて再び教鞭をとる傍ら、日本商業学会会長、日本広告学会会長を歴任した。これらの要職に携わりつつ、1963年に『流通総論―マーケティングの原理―』を公刊する。同書は向井が中央大学商学部で商業学を担当していたときのテキスト『近代商業論講義案』に手を加えたものであったが、版を重ね、商業学・流通論・マーケティング論を学ぶ学生や研究者にとって座右の書として大いに親しまれ活用されることとなった。その後も、1964年にヨーロッパ大陸、イギリス、アメリカを視察して戦後経済事情を研究する等、学究的知見を探求し続け、1966年には勲二等瑞宝章を受章する。1979年6月30日に92歳でその生涯を閉じている。
 以上の略歴を持つ向井鹿松の学問業績は概ね二つに大別されよう。一つは配給市場論であり、その学問的価値は、商業というこれまでの観念に並べて、「配給」という考え方を展開した事である。これは、生産者から消費者までの財貨の移転現象に注目する概念であり、戦時中などは「乏しい物資を、一定の割合でめいめいに渡すこと」として理解されていた「配給」の意味を、「商品が、供給者から需要者へ、法律的にまた物理的に、移転すること」と位置付け、戦後の「物流」という用語の導入を促した業績であった(増井)。
 上記の論説に関連する名著『配給市場組織』については、「社会経済的立場に立って配給組織合理化を考察し、機能分離の原則を樹立し、そのすぐれた職能論は、以後わが国の商業経済学研究の一つの方法的基礎となり、他方精神的機能の集中に関する学説は、マーケティング(販売促進の意味での)理論と結びつくことによって、現代の市場分析、あるいは科学的配給技術の発展・展開への理論的端緒となった。」(鈴木・片岡・村田)と評価されている。
 もう一つの学問業績は統制経済論である。向井の統制経済論は昭和5年の米・英・独視察や、独・英の「合理化運動」の実態に関する『産業の合理化』(昭和6年)公刊をベースに、又、W・ゾムバルト(Sombart,Werner)・E・シュマーレンバッハ(Schmalenbach,Eugen)・W・ラーテナウ(Rathenau, Walther)を代表とするドイツ・オーストリアの学説・経済思想の影響下に展開された(柳澤『政経』)。その成果が昭和8年に刊行された『統制経済原理』(日本統制経済全集)である。
 向井は、自由主義経済の後退と経済的拘束、国家的経済規制への移行を世界的傾向として認め、統制的経済を資本主義と社会主義の「中間」の「経済制度」として構想し、「一国民経済内に各種の原則を異にする経済制度を認めるも、国家の経済政策によって之を統一計画の下に統制せん」(『統制経済原理』)とする計画経済的統制経済を推奨した。ここでは多様な経済形式・経済制度の併存と、多様な統制手段の併用を重視し、それらを「一つの新しい意義ある経済に綜合総括」する必要性が説かれている。この様な主張は単なる政策的時論に止まらず、自由主義的資本主義経済の解体と独占の形成過程を認識し、それを現実の諸問題の局面と結びつけた点、又、現実認識の上に構想や政策思想を構築した点で重要である(柳澤『思想』)と指摘されている。尚、統制経済論を展開しつつ、1935年以降に重要産業統制法の立案へ参加し、内閣調査局の専門委員への就任や大政翼賛会事務局政策局経済政策部へ関係していた事蹟に鑑みれば、向井は戦前・戦時における日本の統制経済の現実に一貫して関与した人物として位置付けられよう。
 なお、向井鹿松の膨大な蔵書は、現在、愛知学院大学に向井文庫として保管されている。(宮田純)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 慶應義塾大学経済学会編『日本における経済学の百年 下巻』(日本評論社,1959年)
『慶応義塾百年史 別巻(大学編)』(慶応義塾,1962年)
向井鹿松『流通総論 : マーケティングの原理』(中央経済,1980年)
増井健一「昭和一二〜一五年の三田経済学部の先生たち」(近代日本研究.15号,1998年)
柳澤治「戦前日本の統制経済論とドイツ経済思想 : 資本主義の転化・修正をめぐって」(思想.921号,2001年)
柳澤治「ドイツの資本主義転化論と日本への影響 : 初期統制経済論の場合」(政経論叢.69巻4・5・6合併号,2001年)
<写真>福沢研究センター蔵