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人名 |
田中 一貞 |
人名読み |
Tanaka Kazusada |
生年月日 |
1872/7/12 (明治5年) |
没年月日 |
1921/9/23 (大正10年) |
出生地 |
山形県 |
専門分野 |
社会学 |
解説 |
社会学者。慶応義塾初代社会学教授。慶応義塾図書館初代監督(館長)。1872年、庄内・鶴岡(現在の山形県鶴岡市)に生まれる。1896年慶応義塾大学部文学科卒業、翌1897年1月から1901年2月まで、宮崎県東臼杵郡延岡町の私塾亮天社の教師を務める。1901年5月第二回慶応義塾派遣留学生としてアメリカ、ヨーロッパを訪れ、アメリカではイェール大学で社会学者サムナー(Sumner, William Graham)の指導の下修士号(学術)を取得、フランスではコレージュ・ド・フランスでやはり社会学者のタルド(Tarde, Gabriel de)の講義を聴講するなどして社会学をおさめる。並行して、ドイツ、スイス、イギリスの学事や社会事業を視察し、1904年3月帰朝。同年4月、慶応義塾大学部教授に就任、文学科・理財科・政治科でフランス語と社会学を教える。翌1905年からは初代慶応義塾図書館監督(館長)を兼任、終生義塾図書館の整備に尽力した。 田中の経歴を振り返るとき、もっとも華々しいのはその慶応義塾図書館館長としての活躍である。田中が留学から帰国した当時、慶応義塾にはまだ貧弱な図書室しか備わっていなかった。そもそも義塾創設以来欧米の教育機関を移植するのに熱心であった福沢諭吉にとって、本格的な図書館の建設は悲願であった。しかし1901年、福沢は志半ばに逝く。折しも欧米の充実した図書館を目にした慶応義塾派遣留学生たちが帰朝しはじめ、学内には図書館拡張の機運が高まっていた。1905年に新進気鋭の教授・田中(当時33歳)を書館監督(館長)に任命するという思い切った人事が行われたのは、まさにこの義塾の悲願を実現しようという学校当局の意気込みの表れであった。田中が監督に就任してからの図書館の発展は目覚ましいものがある。設備が大幅に拡充されると共に、目録の整備がすすめられ、さらに利用者の便宜のために開館時間等のサービスが改善され、寄贈や購入により蔵書が飛躍的に増えた。このような整備の結果膨れ上がった設備を収容するために、1912年(明治45年)、義塾創立50年記念事業として八角塔の新図書館が新築される。田中は新図書館の設計段階から図書館建築について研究を重ね(「図書館建築に就て」学報104号)、とりわけ防火には細心の注意を払っている。その研究の成果である書庫を徹底的に分房にする方針が、後の戦災から多くの図書を救ったという(『慶応義塾図書館史』)。新図書館開館後も田中はその充実と活用に努力を重ねている。中でもさまざまのテーマに基づく月次展覧会を企画し、学内だけでなく学外にも公開したのは大いに評判を呼んだ。 田中の図書館整備への献身はだれもが認めるものであった。当時学生であった高橋誠一郎も三田評論に匿名で「而して田中先生の是れが整理に宸襟を悩ませ給うこと非常にて、夜の目も碌に合わせ給はず、蔵書数次第に増加すると共に先生の体量は次第に減却しつつありと謂う。さても、さても」といささか茶化した調子の一文を投書している。もちろんこれは田中の実直な人柄の表れであるが、他方において田中の図書館への情熱は独自の経営哲学に裏打ちされていたことを見逃してはならない。田中が塾員津田栄に与えた書簡にはそれが鮮烈に表現されている。田中は「若し図書館にして生命なく活動なき只雑然たる倉庫の如きものならしめば、是社会の機関たる資格なきものと云はざるを得ず」と断じている。たとえ最も精選された思想が結晶した書籍であっても「単に蓄積せられたる書籍は直接に何等の効果」もなく、図書館の「経営者の力によりて初めて顕勢力と化し、其の活動を開始する」というのである。単に機械的に図書を収集・保存するだけではなく、どうすれば書籍に秘められた知の結晶を利用者が自在に活用できるのか、つねにそれを念頭に置いて図書館を経営せよ、ということだろう。そのときはじめて図書館に「生命」、「活動」が宿るというのである。実はこの「生命」、「活動」の重視は、経営哲学にとどまらず、田中が終生抱いた一個の立場の表明なのであった。 教育論をみてみよう。田中は当時の教育界の権威主義的な教育方針が生徒たちの面従腹背を招き、教育が形骸化していることに警鐘を鳴らしている。そうではなく生徒たちが学習した内容を体得すること―田中の言葉で言うと学習内容に「ハート(Heart)(人間運動の原動力)」が宿ること―が大事なのであり、そのためには教師も通りいっぺんに教えるだけでなく、教授内容に信念―「ハート」―をもって生徒に向き合わなければならないという。(「ハートの教育」学報37号)この「ハート」なき形式主義への反発は、社会学でも貫かれている。田中は当時の建部遯吾らに代表される国家有機体説に真っ向から対立する、サムナー、タルドゆずりの個人主義的な社会学説を主張している。国家有機体説が社会秩序を権威で担保しようとするのに対して、田中は個人間のシンパシーをこそ「社会の根本的現象」とみなす。(「社会の根本現象」日本社会学院年報第2年第3・4分冊)いくら上位の権威が制裁によって秩序を維持しようとも、それだけではいびつな律法主義が瀰漫するばかりである。上から押さえつけるだけでは足りない。健全な社会秩序はひとりひとりがお互いに抱くシンパシーの積み上げからしか生まれない、というのが田中の信念であった。田中は明言していないが、そのような秩序が実現している社会にこそ、「生命・活動」が宿るということだろう。田中の中では、図書館も教育も社会も同じ視線で貫かれているのである。 このような形式主義批判―ニヒリズム批判と言ってもよい―の哲学をまとめる時間は、図書館館長だけでなく塾内監事、商業学校主任などに忙殺された田中には残念ながら残されていなかった。1919年ワシントンで開催された第一回国際労働会議に日本政府代表を務めた塾長鎌田栄吉の随員として参加し翌年帰国するが、蓄積された疲労のため神経衰弱を患い、不眠症に悩まされるようになる。翌年静養に努めるが、そのかいなく1921年9月22日脳溢血に倒れる。まだ50歳の若さであった。(寺川隆一郎) |
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旧蔵書 |
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出典 / 参考文献 |
川合隆男著『近代日本社会学の展開:学問としての社会学の制度化』(恒星社厚生閣,2003年) 慶応義塾大学三田情報センター編『慶応義塾図書館史』 (慶応義塾大学三田情報センター,1972年) 田中一貞著「ハートの教育」(慶應義塾学報37号,1901年) 田中一貞著「図書館建築に就て」(慶應義塾学報104号,1906年) 田中一貞著「社会の根本現象」(日本社会学院年報第2年第3・4分冊,1915年) 田中一貞著『世界道中かばんの塵』(岸田書店,1915年) <写真>福沢研究センター蔵 |