人名 島崎 隆夫
人名読み Shimazaki Takao
生年月日 1916/8/27 (大正5年)
没年月日 1991/7/13 (平成3年)
出生地 神奈川県
専門分野 日本経済思想史研究・農業経済学
解説

  島崎隆夫は1916年8月27日に神奈川県橘樹郡高津村溝口で呉服商を営む家に生まれた。地元の小学校から東京府立第一商業学校をへて、1935年に慶応義塾大学経済学部予科に入学し、小池基之の影響下に農業経済学と経済学史に関心をもつ。同時にマルクス主義経済学にも興味を抱き、特に“生産力の構造”、 “史的唯物論の研究”、“主体性の問題”等を内容とする「技術論」に着目し、農業問題や歴史研究に対する前提的素養の探求を進める。島崎の研究者としての発端は小池基之の門下生としての“農業問題の研究”にあったといえよう。
  卒業後の1941年4月に慶応義塾大学経済学部助手に採用されるが、翌年1月に応召され河南省およびニューギニアにて従軍、終戦後の収容所暮らしを経て、1946年5月に復員し、同年10月より慶応義塾大学経済学部助手に復職する。戦後も農業問題研究を進展させつつも、野村兼太郎の研究に助力し、それを契機として日本経済思想史研究と全面的に関ることとなり、特に徳川時代の経世済民思想を研究課題とするようになる。
  この研究活動に並行する形で、1941年4月に経済学部助教授、1956年4月には同学部教授に就任し、1962年1月-12月の間には、慶応義塾派遣留学生としてロンドンへ留学し、主として西欧諸国経済学史及び経済史の研究に携わる。その際、ロンドン大学・ケンブリッジ大学を訪問し、シェフィールドの経済学会に参加するなど精力的な研究活動を行う。この留学期間も含めた昭和20年代-30年代にかけて数多くの論説を残しており、その総合的成果は、1967年9月、主論文「近世経世済民論の研究」により慶応義塾大学経済学部から学位(経済学博士)の授与へと結実する。
  その後、1969年10月より、大学紛争の最中に、経済学部長を務める。また、体育会野球部長を11年間勤めたのを始めとして学生スポーツの振興に尽力した。1982年3月に慶応義塾大学を定年退職した後、同年4月には教授・政治経済学部長として松坂大学に移り、1986年4月には同大学学長に就任する。この間には1973年1月より、社会経済史学会代表理事を3期にわたり務めるなど、学会活動に於ける要職に従事する。
  松阪大学に在任中の1990年4月、体調不良により休職し、翌1991年7月13日に病死。
  研究者としての島崎隆夫は日本経済思想史の専門家であり、学位論文の題目に象徴されるように、徳川時代の経世済民思想研究の大斗として位置付けられる。しかし、研究活動の端緒は必ずしも“経世済民論”研究にあった訳ではなく、小池基之の影響下に農業問題・マルクス主義経済学の研究に多くの論説を残しており、それは昭和30年代以前の業績に顕著である。特に昭和20年代後半から30年代初めには、野村兼太郎が先導した関東農村史研究プロジェクトの中心メンバーとして、様々な近世村落に関る事例研究を主要課題としつつ、同時に農書の研究にも関心を寄せていた。
  その後、野村の影響下に日本経済思想史研究に携わり、特に徳川時代の“経世済民論”研究については昭和30年代から積極的に取り組むこととなる。経世済民思想は、「戦前では経済思想史の対象とされ、経済政策論の特色を中心に考察を加えた本庄栄治郎・野村兼太郎の一連の研究は、戦後の研究の基礎となっている」(長島)といわれているが、島崎は、その基礎の上に独自の“経世済民論”研究を進展させるのである
  その際、島崎の問題関心は、「日本近代化の後進性の面を強く意識し、その出発点である江戸時代の経済思想発展の限界を明らかにしようというもの」であり、「明治以降の経済学に対して江戸時代の経済思想の展開がどのような意味があったか」(小室)に焦点をあてたものであった。それを解析する素材として、山鹿素行・熊沢蕃山・水戸学派・林子平・本多利明・佐藤信淵等の思想・影響等が分析されている。これらの一連の研究には、数量ではなくテキストを原史料として「江戸時代の実相に迫ろうとする実証的態度」(飯田)が認められ、なかでも本多利明や佐藤信淵等についての研究は、「史料的な研究としては先駆的な業績」(飯田)とも言われている。特に本多利明については『西薇事情』を素材とする希少な論説を残しており、利明研究における重要論文としての評価が高い(宮田)。この近世日本の経済思想史研究は学位論文「近世経世済民思想論の研究」としてまとめられることとなる。
  この徳川時代における“経世済民論”研究が島崎の研究活動における金字塔として位置付けられるのはいうまでもないが、昭和50年代に携わった徳川時代の“開物思想”研究についても若干触れておかねばなるまい。このテーマを直接扱った論説は「近世開物思想の一考察」が残されているが、その内容は、経世済民論を構成する諸概念の中に座する「生産・産業の開発=開物」の概念が意識され、経済論の基礎におかれていった事情を考察したもの(島崎)であり、海保青陵に代表される流通合理主義的経世論とは異質な利明・信淵にみられる生産力増大の側面を評価し、近世を通貫する産業開発論の一環として論じられている。この“開物”思想に関する研究は「経世思想の別の側面を照射したもの」(長島)として評価されており、経世済民論研究の新たな可能性を示唆した論説としての価値をもつのであるといえよう。
  上記の研究活動に補足すべきものとして、研究史整理とテキスト校訂への貢献が挙げられる。前者は1959年-66年の間にまとめられた日本経済思想史研究史の整理であり、日本経済思想研究における問題関心の変遷・重要論説の紹介が的確になされており([引用・参考文献]※欄参照)、日本経済思想史研究者にとって必読のものとしての価値をもつ。後者『日本思想大系45 安藤昌益 佐藤信淵』における佐藤信淵部の校注・解説であり、信淵研究における重要史料が翻刻の形で後進の研究者に提供されている。
  以上の成果を残した島崎隆夫であるが、惜しむらくは、徳川時代の“経世済民論”に焦点をあてた、総合的な単著を残さなかったことである。“経世済民論”研究に関する問題関心の明示、諸事例に対する複数の考察、“開物”概念を中心とする新たな分析視覚の提示等がなされていただけに、それらの総括的著述の未確立は研究界にとって大きな損失であったといわざるを得ない。この見解はいみじくも、正田健一郎の「私が惜しむのは先生が日本(経済)思想史の体系的著作を残されなかったことだ。先生は多くの思想史研究のモノグラフを書いておられる。近世の経世済民思想の研究は先生によって本格化に向かう端緒がひき出されたといっても過言ではないであろう。それだけに体系的著作を残しておいて下さっていたらと思うのである。」(正田)と語った回顧に象徴的であるといえよう。(宮田純)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 島崎隆夫著「近世開物思想の一考察」(三田学会雑誌.71巻5号, 1978年)
長島光二著「経世学の世界」(『日本近世史研究事典/村上直編』 東京堂, 1989年)
飯田鼎著「温顔の人―島崎隆夫さんを悼む―」(三田評論.930号, 1991年)
正田健一郎著「島崎先生をしのぶ」(社会経済史学.58巻2号, 1992年)
小室正紀著「江戸時代経済思想史研究への一視覚」(『経済学史―課題と展望―/経済学史学会編』 九州大学出版会, 1992年)
島崎良編『島崎隆夫遺稿集』(島崎会, 1993年)
宮田純著「本多利明の藩「国益」思想―寛政七年成立『西薇事情』を中心として―」
(『地域社会の展開と幕藩制支配/森安彦編』 名著出版, 2005年)
島崎隆夫著「日本経済思想の研究史―徳川時代経済思想を中心として」(『日本における経済学の百年 上/慶応義塾大学経済学会編』 日本評論社, 1959年)
島崎隆夫著「日本経済思想史研究を回顧して」(三田学会雑誌.53巻10・11合併号, 1960年)
島崎隆夫著「徳川時代「経済」思想史研究の回顧」(社会経済史学.31巻1-5合併号, 1966年
<写真>福沢研究センター蔵
『島崎隆夫遺稿集』より引用