人名 藤林 敬三
人名読み Fujibayashi Keizo
生年月日 1900/11/8 (明治33年)
没年月日 1962/9/15 (昭和37年)
出生地 大阪府
専門分野 労働経済論・経済心理学
解説

  藤林敬三は1900年11月8日に大阪市南区八幡筋において生を受けた。郷里の大阪、そして島根等で勉学に励み、1920年9月に慶応義塾大学経済学部予科一年に入学する。学生時代は三辺金蔵のもとで広告販売心理学を研究し、この経験が後の経済心理学研究の布石(西尾)となる。
  1926年3月に同学部を卒業すると、4月から経済学部助手に採用され、引き続き三辺に師事する。その後、1929年11月~32年2月の間に慶応義塾派遣留学生としてドイツ(ベルリン大学・ライプティッヒ大学)・フランス・イギリス・アメリカに留学し、心理学・産業心理学を学ぶ。この時、課せられた研究課題は“経済心理学”であった。同時期、共にドイツに留学した寺尾琢磨は、「藤林ははじめヴント(Wundt,Wilhelm Maxmilian)の心理学などに没頭していたが、次第に労働問題・社会問題に興味を抱きはじめた。ヘルクナー教授(Herkner, Heinrich)あたりの影響だったと思う。最初の目的だった労働心理学はいつしか労働経済学に変わっていった。」(寺尾)と回顧している。留学時は、1929年にはじまる「世界恐慌が全資本主義体制を震撼させるにいたる、まさに資本主義の激動期」であり、その社会情勢を先進資本主義国の中において観察する機会を得たことにより、藤林の関心は「専ら労働者問題に向けられ、技術と産業心理その他労働科学の諸問題に研究の主力が注がれた」(小池)。
  帰国後の1932年4月から慶応義塾大学経済学部助教授に就任し、経済心理学の講義を担当するなど、教育活動に従事しつつ、自身の労働科学研究を進展させてゆく。1934年4月に慶応義塾大学経済学部教授に就任し、1935年に単著としての処女作『経済心理学―能率心理学の批判と労働者心理学の研究』(東洋出版社)を刊行する。
  その後、戦渦が拡大してゆく社会情勢の中、軍の召集を請け、1937年11月~39年8月の期間、看護兵として中支各地の病院勤務への従事を経験した後、再び学究生活に復帰し、1941年『労働者政策と労働科学』(有斐閣)を刊行する。
  戦後、1945年10月、主論文「労働者政策と労働科学」・副論文「わが国における労働移動の歴史的考察」において経済学博士の学位を授かり、研究者としての成果が結実することとなる。また、1951年2月~53年9月に慶応義塾大学経済学部長、1959年9月慶応義塾大学産業研究所所長に就任するなど慶応義塾大学における要職を歴任する。
  他方、1945年に労務法制審議会委員として労働組合法・労働関係調整法・労働基準法の原案審議に参画するなど「労働者政策」の社会的実現に尽力し、以後、中央労働委員会・国鉄中央調停委員会・社会保障制度審議会・公共企業体等労働委員会・経済審議会等の諸機関における委員・委員長・会長を歴任する。特に1960年3月に中央労働委員会の四代目会長に就任してからは、数多くの重要な労働争議の解決に尽力した。1962年9月15日に逝去。
  以上の略歴をもつ藤林敬三の業績は概ね二通りに大別できよう。一方は社会における労働者の存在に着目した“労働者・労働科学研究”であり、他方は社会に実在する労働問題に対する実践的態度を示した“労働争議斡旋”活動である。
  前者は更に、①経済心理学に関する研究、②労働者政策に関する研究、と分別することができる。①に関する代表作としては、先述した『経済心理学―能率心理学の批判と労働者心理学の研究』があげられるが、同書は、「広告販売心理学を経済心理学体系の中に位置付けるとともに、経済心理学の応用経済学的方向を主張」(西尾)したものである。また同書において、労働者心理学とは、「労働者の職場の内外における日常生活の全姿態を、労働者の個性がその生活環境との関連において顕現する形態と態度として研究するとともに、個性の自由な発展を促進するようにその環境との関連を調整するという実践的目的をもった応用心理学」(中鉢)という位置付けがなされている。
  ①により研究の基礎を確立し、その延長線上で構想されたのが②に関する研究であり、代表作としては、『労働者政策と労働科学』(有斐閣)があげられる。同書は「労働科学体系への一道標であるとともに、労働者政策の科学的基礎付け、したがって、現実の労働者政策に対する批判的解明を意図した」(小池)ものとして位置付けられている。すなわち、同書は、「単に労働生理学、労働医学、労働心理学をその内容とする従来の労働科学を批判し、労働の正しい理解には労働者心理学が不可欠であり、それの研究発展をとりいれた新しい労働科学をつくり出す必要を力説」し、「この新しい労働科学を理論的基礎として、労働政策が労働力政策と労働者政策とから構成されるべきである」(森)との主張を展開している。
  以上①②に代表される藤林の学問的業績は、「労働者の個性と環境の弁証法を基礎とし、総合的な労働の人間的構造を解明する労働科学を体系化することによって、社会総体としての労働力の供給条件を向上させる政策、すなわち労働者政策の構想に到達し、この社会総体としての労働力の供給条件が、経済発展にともなう産業の構造変動に対応しつつ展開されてゆく過程を、労働移動の歴史的・実証的研究として把握することに成功したものとみることができる」(中鉢)との総合的な評価が与えられている。
  他方、後者については、1960年に中央労働委員会長に互選された後、約3年にわたり、労働争議に対する斡旋を行うこととなった。その数は30を越え、代表的な争議としては三井三池争議(1959~60年)・日赤争議(1960~61年)等があげられ、労働問題に関する実務的解決に主導的な関りをもった事績が示されている。
  これらの業績に示唆される研究者としての藤林敬三を総括するならば、“経済心理学→労働者政策論→労働問題に対する実務的活動”の流れの中で把握することもできる。その際、藤林の観点の中心に存在したのは、抽象的な労働ではなく、「あくまでも社会的存在としての人間、労働者」(竹岡)であり、労働者としての人間をいかに把握するかという問題意識を常時、抱き続けていた姿勢が浮き彫りとなる。また、藤林の実践活動の基底には、日本社会の固有な低賃金・低能率・長時間労働という状況から、先進資本主義国にみられるような高賃金・高能率・労働時間短縮という方向への転換は、いかにして可能となるかという問題関心が常にあったと言えるだろう。
 (宮田純)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 藤林敬三博士還暦記念論文集編集委員会編『労働問題研究の現代的課題―藤林敬三博士還暦記念論文集』(ダイヤモンド社,1960年)
慶応義塾編『慶応義塾百年史 別巻(大学編)』(慶応義塾,1962年)
小池基之著「藤林敬三博士の逝去を悼む」(三田学会雑誌.56巻6・7号,1963年)
寺尾琢磨著「藤林君と電子計算機」(三田学会雑誌.56巻6・7号,1963年)
森五郎著「藤林先生とその業績を想う」(三田学会雑誌.56巻6・7号,1963年)
中鉢正美著「労働経済論における藤林教授の業績」(三田学会雑誌.56巻6・7号,1963年)
大河内一男著「藤林敬三博士の人と学問」 (三田評論.707号,1971年)
増井健一著「昭和一二~一五年の三田経済学部の先生たち」(近代日本研究.15巻,1999年)
藤林研究会編『故藤林敬三先生』(出版社・出版年未記載)
西尾・竹岡(故藤林研究会員三年・四年有志)「藤林敬三先生の学問研究とその成果」藤林研究会編『故藤林敬三先生』(出版社・出版年未記載)
<写真>三田学会雑誌56巻6・7号 福沢研究センター