人名 山本 登
人名読み Yamamoto Noboru
生年月日 1912/11/5 (大正元年)
没年月日 1991/7/2 (平成3年)
出生地 東京都
専門分野 国際経済論・アジア経済論
解説

  山本登は1912年11月5日に東京都大田区で生を受けた。慶応義塾幼稚舎・普通部で少年期を過ごした後、1929年4月に慶応義塾大学経済学部予科に入学し、統計学の碩学である寺尾琢磨に師事する。1935年3月に同大学を卒業すると、翌月から慶応義塾大学経済学部の助手に就任し、統計学の講義を担当した後、研究課題を狄¬雲策瓩悗氾彰垢掘△修寮果として1940年12月に処女作『日本外地経済』(慶応出版社)を刊行する。
  その後、1941年4月に慶応義塾大学経済学部助教授、そして戦後の1948年4月には同学部教授に就任する。この期間は、戦前・戦中に取り組んだ狄¬雲策畍Φ罎魏蔀呂箸靴伸狎こΨ从冢性畍Φ罎鮨靴燭弊鏝紊硫歛蠅箸垢訶承,箸覆蝓△修寮果は大著『世界経済論』(泉文堂、1950年)の刊行へと至る。その後、慶応義塾大学在任中の1952年10月-55年3月の期間にはドイツ政府奨学生制度(DAAD)を利用して、西ドイツに留学する(研究テーマ:「日独経済復興の比較」)。
  留学から帰国後、アジア問題調査会に加わり、アジア・東南アジア研究に更なる尽力を果たし、その成果は1960年3月に主論文「アジアの地域的経済協力問題の研究」による経済学博士の学位授与へと結実する。
  1964年4月以降、慶応義塾大学国際センター所長、慶応義塾常任理事、慶応義塾評議員等を歴任し、1978年3月に同大学を定年退職した後、翌月から創価大学経済学部教授に就任し、地域経済・国際経済等の分野を担当する。これらの慶応義塾大学・創価大学に於ける教育活動・学内活動と並行して、1950年以降、国際経済学会、世界経済研究協会、アジア政経学会、日本国際問題研究所等で要職を務め、また文部省大学設置審議会、日本学術振興会等の職務にも参画した。
  その後、1990年9月に病気療養の為、創価大学を退職し、翌年の1991年7月2日に逝去。尚、1981年春に紫綬褒章、86年春には勲二等端宝章をそれぞれ受章している。
  山本登の研究者としての事績は、慶応義塾大学経済学部在学中における寺尾琢磨(統計学)への師事を発端とする。寺尾のもとで景気循環論・景気変動論研究を進展させ、それは助手就任後も継続される。その際、特にドイツのワーゲマン(Wagemann, Ernst)を中心とする景気変動論に関心を持つこととなった。
  その後、植民政策の講座を担当する事となった山本は、専門分野を狄¬雲策畍Φ罎悗氾梢覆気擦襦山本の狄¬雲策畍Φ罎砲ける問題関心は「これまで日本が行ってきた何がしかの植民活動、あるいは植民地経営についての事実を、もっと客観的に認識する必要性がある」(山本 学問)という意識に基づいたもので、考察対象とされたのは、日本の植民地としての台湾・朝鮮であった。その際、参考とした先行研究は、矢内原忠雄・山本美越乃、エジャートン(Egerton, Hugh Edward)・ウェイクフィールド(Wakefield, Edward Gibbon)であり、その成果は処女作『日本外地経済』(慶応出版社、1940年)へと結実する。その後、太平洋戦争の最中の時勢を背景に、東南アジアを中心とする南洋経済や南方経済の研究にも着手する。この経験は「戦後、程経て、東南アジア研究に手を染めるようになったおり、戦争中の南方経済の研究がその基盤となった」(山本 読書)と後日への影響を齎す事となった。
  戦後、植民政策の講座に代わり設定された世界経済論の担当となった山本は研究課題も狎こΨ从冢性畍Φ罎悗氾梢覆気擦襦ただし戦前の研究と決別した訳ではなく、既知の素養であった伊藤秀一の植民政策論・世界経済論や戦前のドイツで隆盛を極めた世界経済の構造分析法も研究・講義に大きな影響を残す事となった。
  その成果は山本の主著『世界経済論』(泉文堂、1950年)の刊行に集約される。同書は「世界経済の研究が、今一度過去を反省して、世界経済現象の客観的認識と分析からの再出発を必要とする理由がある」(山本『世界経済論』初版)という問題意識を根幹に置き、「イデオロギーに基づく予断や理論への偏向を排し、歴史的、構造的分析に重きをおいて世界経済の現実を把握し、そのあるべき姿を求めようとするもの」(大山)であった。そして、初版(1950年)〜新版(1979年)に於ける5度の刊行に関しては、度々の訂正・加筆が行われており、変動する世界情勢への対応的考察が継続的に行われている。尚、改訂版(1951年)には朝鮮動乱が、三訂版(1952年)には対日講和条約の調印・米ソ両陣営による東西冷戦体制の深化といった国際情勢が考察対象として拡充されており、四訂版(1960年)には、1952年秋からのドイツ留学による影響が反映されている。山本は留学時にキール大学付属世界経済研究所を活動拠点としながら、プレデール教授(Predoehl, Andreas)へ師事し、ドイツ流の世界経済研究の理論的系譜に触れる機会に恵まれた。折しも、在独中にはヨーロッパ石炭・鉄鋼共同体(ECSC)が発足し、ヨーロッパ6カ国による地域経済共同体結成の意義と効果について検討すべき必要性が山本に齎され、理念としての狠楼莊从囘合瓩紡个垢覺囘世鳳洞舛鰺燭┐觧となった。帰朝した山本は、この経験を内在化させつつ、東南アジアを中心としたアジア経済に研究課題を再設定し、先進国と後進国の関係性や世界経済の地域化傾向に関する考察を深化させ、狠楼莊从囘合甦僂肇▲献経済観の両者を融合させた成果として四訂版は成立するのである。
  更に、約20年を経た新版(1979年)に於いてはベトナム戦争の国際的影響や1960年代以降の南北問題の台頭・展開・影響とそれらに対する日本の役割が考察に組み込まれており、日本を含む太平洋における先進諸国とASEANにより構成された経済圏(太平洋経済圏)の設立が提起されている。この見解は「発展途上国の経済開発を促進するためには、経済開発共同体の結成が必要であるというのが、先生の持論であり、情熱であり、あるいは願望的思考とも思われた」(矢内原)とした山本の研究理念の反映であり、山本の死後、世界情勢の推移に鑑みて、山本の「世界経済の基本的動向に対する政治経済的・歴史的分析が含む洞察の深さと慧眼」(高木)として評価されている。
  以上の『世界経済論』に集大成された山本登の狎こΨ从冢性畍Φ罎廊狄¬雲策畍Φ罎ら始まり、戦中に発露となったアジアの外地・南方・南洋への視座を保ちつつ、狎こΨ从冢性畍Φ罎悗反焚修掘∪鏝紊離疋ぅ栂嘘悗魴正,箸靴道彪磴箸覆辰伸狠楼莊从囘合甦僂鯀箸濆みながら醸成され、世界経済の分析という巨視的な立場から、東西問題・南北問題解決への構想を提唱したものと総括できる。その際、戦前からの考察対象地域であったアジアの経済問題に対する関心は終生貫徹され、「山本の資質はアジアの現状分析に最も開花した」(矢内原)と評されるように、アジア経済分野の権威として位置付けをもたらすこととなったのである。
 (宮田純)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 「山本登名誉教授略歴」(三田学会雑誌.71巻2号,1978年)
「故山本登名誉教授略歴」(世界経済評論.35巻9号,1991年)
「故山本登名誉教授略歴」(季刊創価経済論集.21巻2号,1992年)
大山道広著「山本登先生の人と学問」(世界経済評論.35巻11号,1991年)
矢内原勝著「山本登先生の世界経済論」(世界経済評論.35巻10号,1991年)
高木功著「故山本登先生を偲んで」(創価経済論集.21巻2号,1992年)
山本登著「私の読書遍歴」(三色旗.299号,1973年)
山本登著「我が学問遍歴:世界経済研究の回顧と展望」(三田学会雑誌.71巻2号,1978年)
『山本登先生の思い出』(慶應通信,1992年)
山本登著『世界経済論』(泉文堂、1950年)
山本登著『改訂 世界経済論』(泉文堂、1951年)
山本登著『三訂 世界経済論』(泉文堂、1952年)
山本登著『四訂 世界経済論』(泉文堂、1960年)
山本登著『新版 世界経済論』(泉文堂、1979年)
<写真>福沢研究センター蔵 『山本登先生の思い出』より引用