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人名 |
伊藤 秀一 |
人名読み |
Itoh Shuichi |
生年月日 |
1898/11/11 (明治31年) |
没年月日 |
1934/7/27 (昭和9年) |
出生地 |
北海道 |
専門分野 |
経済地理、植民政策 |
解説 |
経済学者。専門は植民政策・経済地理。1898年11月11日、北海道歌棄郡潮路村(現・寿都郡黒松内町)に生まれる。1916年慶応義塾大学部予科に入学。1923年慶応義塾大学経済学部卒業と同時に、同学部助手に採用される。1925年から予科教員、経済原論を教える。1927年10月慶応義塾派遣留学生として英米独に留学。経済地理・商品学を研究する。 1929年11月帰朝、翌年2月経済学部助教授に就任。「経済地理」「経済特殊問題」「植民政策」「英語経済学」「研究会」を担当する(1932年から「独語経済学」も担当)。1932年1月から経済学部教授。ロシア社会運動史について先駆的業績を上げるとともに、マルクス資本蓄積論研究に先鞭をつけ、それにもとづく帝国主義論を展開した。 伊藤秀一の仕事に顕著なのは、同時代の経済社会の動向への鋭敏な関心である。伊藤が上京し慶応義塾予科に入学したのはまさに第一次世界大戦の最中であり、その翌年にはロシア共産主義革命という未曽有の事件が起きている。1920年代末になると日本経済は農産物価格の暴落による農村の疲弊と急速な工業化と金融恐慌による財閥への富の集中が進み、また日本もその一角を担った列強による植民地争奪戦が経済のブロック化をひきおこしつつあった。世界経済は、1930年に未曽有の恐慌におちいったが、ソビエトロシアのみは「五ヵ年計画」のもとに経済建設を着実にすすめているといわれていた。そのような中では古典派の楽観的な自由経済像よりも、マルクス(Marx, Karl)の闘争的な資本主義像のほうが魅力的に映ったのであろう。伊藤はマルクス主義一般とロシア革命の研究から、その学問的経歴を開始している。ことによると10代の多感な時期にロシア文学に心酔したのも、伊藤のロシアへの関心を後押ししたのかもしれない。(伊東1934: 126)1927年に上梓された処女作『露西亜社会運動史研究』は、1870年代の農奴制の廃止からのロシア社会思想史を丹念にたどり、1917年の共産主義革命が紆余曲折の末実現するまでの過程を追跡した力作である。これは「日本におけるロシア社会運動史―ロシア革命史の研究にとって、はなはだ貴重な先駆的業績」(『慶応義塾百年史 別巻 大学編』: 122)と高く評価されている。 処女作を出版すると同時に伊藤は英米独に留学し、ロシアだけでなく世界経済全体を視野に収める経済地理学・商品学を学び、1929年に帰朝している。奇しくもこの年の10月アメリカで株式市場が大暴落したのを皮切りに、世界は大恐慌に飲み込まれていく。帰国後経済学部助教授に就任した伊藤は、時代に応答するかのように、精力的に著作を発表している。1931年には代表作『世界経済概論』を上梓。1932年-33年にかけて「世界経済問題講座」という当時の経済学部のワーキング・ペーパーに立て続けに7本の論考(『帝国主義』『世界経済の理論・世界経済概論』『世界軽工業論』『極東経済勢力圏』『世界重工業論』『世界農業恐慌』『植民政策・植民地問題』)を発表している。理論研究から実証研究までカバーしている様は圧巻である。 伊藤が現実と切り結ぶ上で依拠した方法論は、ホブソン(Hobson,John Atkinson)、レーン(Lenin, Vladimir Ilich)の帝国主義論である。生産力が向上するにつれてそれを吸収する需要が不足してしまうという資本主義の内在的矛盾は、たとえ商品・資本の市場を外国に確保するための帝国主義政策を採ったとしても、克服できないという見通しを伊藤は持っていた。しかしこれはあくまでも学問的な立場であり、伊藤による丹念な統計データとのつき合わせの結果出されたものであることを急いで強調しておこう。伊藤の著作には、資本主義の没落を寿いだり、理想社会を幻視したりするようなところは一切ない。伊藤の関心は、現実の危機がいったいどのような仕組みで生じているのかという学術的なものであった。 このような「冷静さと社会科学的矜持を失わない」(飯田2007: 39)伊藤の態度は、理論や統計に耽溺することなく常日頃から現実の経済動向に向き合うことで保たれていたようだ。伊東岱吉による講義の描写は、その一端をうかがわせてくれる。「先生の講義は目まぐるしく転回する動揺期世界経済の諸現象に対して拱手茫然たる学生に、考察の基礎を与える最も意義深きものであったと言えよう。(中略)而も先生の講義は常に新しい現象の説明を以って盛られていた。新聞紙上に次から次へと報道される目まぐるしい世界経済の動きに関する疑問は、先生の講義に於いて一つ一つ取り上げられ解決せられた。(中略)私は先生の講義は先生の著述論文より遥かに価値大なるものであり、先生の生命は寧ろ講義の中に在ったものと思う」(伊東1934: 127-8)。 気鋭のマルクス経済学者として嘱望された伊藤であったが、1934年2月急性肺炎をわずらうと入退院を繰り返し、同年7月27日不帰の人となる。享年37歳。経済学部の教壇に立ってからわずか4年のことであった。 |
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旧蔵書 |
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出典 / 参考文献 |
飯田裕康著「『三田学会雑誌』のマルクス」(三田学会雑誌.100巻1号,2007年) 伊藤秀一著『露西亜社会運動史』(岩波書店,1927年) 伊藤秀一著『世界経済概論』(同文館,1931年) 伊藤秀一著『帝国主義』(春秋社,1932年) 伊東岱吉著「伊藤秀一教授逝く」(三田学会雑誌.28巻8号,1934年) 慶応義塾『慶応義塾百年史 別巻 大学編』(慶応義塾,1962年) テッサ・モーリス‐鈴木著『日本の経済思想:江戸期から現代まで』(岩波書店,1991年) 「伊藤秀一君の訃」(三田評論.444号,1934年) |