人名 高村 象平
人名読み Takamura Shohei
生年月日 1905/8/2 (明治38年)
没年月日 1989/5/11 (平成元年)
出生地 東京都
専門分野 西洋経済史
解説

  高村象平は、1905年8月2日、父国策、母はなの長男として、東京市本所区(現・東京都墨田区)に生まれた。1918年、東京市立元町尋常小学校を卒業後、開成中学校(現・開成学園)に入学、1923年同校を卒業すると、慶応義塾大学経済学部予科に入学した。この年9月には関東大震災が発生しており、本郷に移転していた高村の自宅も焼失している。そのため、高村は、1926年4月に経済学部本科に進むまで天現寺にあった慶応義塾の寄宿舎で生活することとなった。
  高村自身の述べるところによると、慶応入学は決して本意ではなかった。本当は第二高等学校か秋田鉱山専門学校への入学を志望していたが、入試に失敗したので方針を変え慶応の予科に入ったという。そうした入学の経緯からか、予科時代には学問ではなく演劇に没頭した。天現寺の寮祭で最初にやったのが、朝鮮独立運動の志士金玉均を主人公としたもので、そのときは高村が主役をつとめた。
  本科に進んでから、高村は演劇とは縁を切り、野村兼太郎の指導の下、経済史を専攻する。卒業論文の題目は「クライミング・ボーイの研究」というものであった。クライミング・ボーイとは、煙突のなかをはい上がっていく子供、つまり自分の体で煙突の内部をこすって煤を落として行く子供のことである。
  高村とクライミング・ボーイとの出会いは偶然だった。開成中学二年生のとき、担当の英語教師から夏休みの宿題として、丸善へ行って洋書を買い、それを半分でも三分の一でも良いから読むことを課せられた高村少年は、チャールズ・ラム(Charles Lamb)の”Tales from Shakespeare”(=『シェークスピア物語』)を一番安いエブリマンズ・ライブラリーで購入して”The merchant of Venice”(『ヴェニスの商人』)や”Macbeth”(『マクベス』)などを読んだ。その後、大学生になってから、当時刊行中であった『夏目漱石全集』を繙いていたときラムの名に再会することとなる。そこにラムの「ジ・エッセー・オブ・エリア」が挙げられており、なかにクライミング・ボーイのことを書いた文章があったのである。冬の寒い朝、すずめの鳴くような声で「スイープ、スイープ(お払い、お払いはいかが)」と言いながら、雪道を歩いて行く子供の情景をしみじみと描いたラムの文章にひかれた高村は、これを卒業論文のテーマとすることに決めたのである。
  高村が「煙突掃除の子供について研究してみたいので、しかるべき参考書をご指示いただきたい」と野村のところへ相談にいくと、野村は「君、ほんとうにやるのか」と最初は答えた。しかし、高村が本気であることがわかると、野村は最初に慶応の図書館にあるヘンリー・メイヒュー(Mayhew,Henry)”London labour and London poor”を指示した。全四冊の大冊であるにもかかわらず目次がないこの本と格闘するうちに、高村は英文をはすに読む術を身につけた。このほかにも野村から指示されたチャールズ・ブース(Booth,Charles)『ロンドンの労働者の研究』("Life and labour of the People in London”のことか)などを使い、高村は卒業論文をまとめあげた。この論文が認められて、卒業と同時に、1929年に経済学部の助手に採用され、引き続いて二年間は、イギリスの産業革命時代の児童労働をテーマとして研究を続けた。
  しかし、「何を書きましても、師匠の野村博士はいいとは決して言ってくださらなかった」。そこで高村は、野村の助言に従い歴史哲学に研究テーマを変えたが、この分野でもじきに行き詰り、三度野村の助言に従って、1933年に北ドイツの貿易都市集団ドイツ・ハンザの研究に取り組むことになる。その後高村の学問的関心は、織豊時代の対外交易、明治以降の林業史や塩業史、さらにはアメリカ経済史の一部にも及んだが、最終的にはドイツ・ハンザが高村の生涯の研究テーマとなるのである。
  それでは、高村がドイツ・ハンザの研究から得た結論とは何であったか。ドイツ・ハンザは大体12世紀の半ばから約五百年間存続したが、これほど長く続いたのは強制がなかったためである、というのがそれであった。つまり、団体なり個人なりが自由意志で集まって仕事をしていく限りにおいては、その集団は長く続くであろう、しかし何らかの強制を加えることがあったならば長続きはしないということである。高村は「実際のところ、むなしいものしか、つかめなかったかもしれません。だが、それでいいのだと思うのです」と控えめに総括しているが、そこには平凡な真理を実証することにこそ歴史学の大きな使命があるという高村の学問観が現れている。
  なお高村は、1955年から57年まで慶応義塾大学経済学部長、1958年から1960年まで慶応義塾図書館長、1960年から65年まで慶応義塾長をつとめた。高村の塾長就任については、山梨県に住む元研究会員が、新聞でこの報道を見てどうしても信じることができず、わざわざ上京して塾監局に確かめに来た、という笑い話さえ伝えられている。高村の学究としての側面がいかに学生に対して強い印象を与えていたかをうかがわせる話であるが、高村自身も、福沢記念学事振興基金を設置して研究体制を整備したことが塾長としての最大の仕事であったと後に述べている。また、高村は1963年から文部省の主要な審議会のメンバーでもあり、1977年から1983年までの中教審会長在任中には、歯に衣を着せない発言から”ミスター中教審”とも言われた。1989年5月11日、急性心不全のため83歳で死去している。
  堀 和孝

旧蔵書  
出典 / 参考文献 参考文献
服部謙太郎著「あのころの高村先生」(『三田学会雑誌』64巻8号、1971年8月)
「高村象平名誉教授年譜」「高村象平名誉教授著作目録」(同上)
高村象平著『新版 私学に生きる』(文化総合出版、1976年)
高村象平著「大学」(『三田評論』894号、1988年)
<写真>福沢研究センター蔵