|
人名 |
Droppers Garrett |
人名読み |
Droppers Garrett |
生年月日 |
1860/4/12 (万延元年) |
没年月日 |
1927/7/7 (昭和2年) |
出生地 |
ウィスコンシン州, アメリカ |
専門分野 |
|
解説 |
ギャレット・ドロッパーズ(Droppers, Garrett)は1860年4月12日、アメリカ、ウィスコンシン州のミルウォーキーにオランダ移民の子として生まれた。主に経済上の理由から高校卒業後に数年間、高校のラテン語教師をして過ごしたのちにハーバード大学に入学した。1887年に卒業した後、ヨーロッパを遊学し、1888年から一年間、ベルリン大学でシュモラー(Schmoller, Gustav von)とワーグナー(Wagner, Adolph)の講義を聴講している。ここで、ドロッパーズはドイツ歴史学派の洗礼を受けたものと考えられる。ヨーロッパ滞在中に当時のハーバード大学学長C・エリオット(Eliot, Charles)から、慶応義塾の教授職の連絡を受けたドロッパーズはただちに帰国し、妻コーラ(Cora)と結婚している。そして1889年10月23日に他の2学科の主任教師(ウィリアム・S・リスカム Liscomb, William S.、ジョン・H・ウィグモア Wigmore, John H.)と共に来日した。その後9年間の長期に渡り理財科主任教師を務めた。代表的な教え子としては堀江帰一などが挙げられる。この間、"The Nation" 誌や "Transactions of the Asiatic Society of Japan" 誌に、特に日本の政治や経済問題に関する論文を多数寄稿している。とりわけ "The Population of Japan in the Tokugawa Period" は歴史人口学の先駆的な業績としてよく知られた論文であり、翻訳もなされている。また、"Quarterly journal of Economic" に掲載された論文 "Monetary Changes in Japan" では、日本の銀本位制、金本位制を取り上げて分析し、高い評価を受けている。一方、私生活においては、1896年に妻コーラを赤痢で失うという不幸に遭ったが、翌年にはその妹ジーンと再婚し、1898年には長男をもうけた。さらに帰国後には三人の娘が生まれた。1898年末に帰国し、翌1899年からサウス・ダコタ大学の学長となったが、地元の保守的な州政府と折り合いが悪く、1906年に辞職した。1906年から07年までシカゴ大学の経済学特別講師を勤めたが同年7月、マサチューセッツ州の商工委員会の書記に就任した。さらに1908年からはウィリアムズ大学経済学教授となった。この時期に、日本の成功の原因を社会の連続性と連帯にあると論じた論文 "The Secret of Japanese Success" を書いている。その後、1914年に、ウィルソン大統領 (Wilson, Thomas Woodrow) の要請でギリシャ及びモンテネグロの特命全権大使に就任し、当初の予定を大幅に超えて1920年まで勤めた。ウィリアムズ大学に復職後、体調の悪化もあり、1923年に大学を退任した。同じ年に唯一の著書となる "Outlines of Economic History in the Nineteenth Century" を出版している。その後、慶応義塾から再招聘があり、1926年に来日したが、病状が悪化して聖路加国際病院に入院。いったんは小康状態となって帰国した後、1927年7月7日にウィリアムズタウンの自宅にて死去。享年67歳であった。(原谷直樹) |
|
旧蔵書 |
|
出典 / 参考文献 |
ドロッパーズ「自叙伝」(慶応義塾学報. 6巻, 1898年), 池田幸弘著「ギャレット・ドロッパーズの経済学‐ギャレット・ドロッパーズとドイツ歴史学派」(近代日本研究. 14巻, 1997年), 西川俊作著「G・ドロッパーズの履歴と業績」 (三田商学研究. 26巻1号, 1983年), 西川俊作著「忘れられたジャパノロジスト」(エコノミスト. 61巻3号, 1983年), 西川俊作著『福沢諭吉と三人の後進たち』(日本評論社, 1985年), <写真>慶応義塾写真データベース 福沢研究センター |