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人名 |
武村 忠雄 |
人名読み |
Takemura Tadao |
生年月日 |
1905/10/10 (明治38年) |
没年月日 |
1987/12 (昭和62年) |
出生地 |
東京 |
専門分野 |
統制経済論・景気変動論・国防論 |
解説 |
武村忠雄(旧姓奥田)は1905年10月10日に東京の麹町に於いて生を受けた。1928年に慶応義塾大学経済学部を卒業後、同大学助手に就任する。翌年、陸軍の幹部候補生として入隊後、10ヶ月の兵役期間を経て、1931年から予備役陸軍主計少尉に就任する。この頃には予科講師を兼ねて「経済原論」を担当した。 1932年に処女作『マルクス恐慌理論』(春秋社)を刊行(同書の著者名は旧姓の奥田忠雄)した後、翌年3月より「経済学」研究の為にドイツ・イギリスに留学する。1935年3月に帰朝した後、慶応義塾大学経済学部助教授に、1937年には教授に就任し、「経済原論」・「景気変動論」・「ドイツ語経済学」・「英語経済学」・「研究会」を担当した。 1938年には、主著『統制経済と景気変動:資本主義構造変化論』(有斐閣)を刊行する。戦火の折には、1940年に組織された陸軍省戦争経済研究班(別称:秋丸機関)に参加して欧州の経済戦力調査に携わった後、1941年末以降には総力戦研究所研究員となり、陸軍大学校・海軍大学校の研究員を兼任しつつ終戦を迎える。 敗戦後、戦後処理の一環として、各大学に於いて教員適格審査が行われた結果、慶応義塾大学では武村を含む3名が該当とされ(八木)、1946年6月に教職を追放されるが、1951年10月に教職員適格再審査に於いて適格と判定され、1953年には講師として慶応義塾大学に復帰し、「経済原論特殊問題」を担当した。 その他の戦後に於ける活動として、景気予測や経済分析を主とした経済評論家としての仕事に従事するだけでなく、1946年5月に設立された日本経済復興協会理事に発足時より就任し、専務理事を経た後、1978年からは第2代理事長を務めた。同職在任中の1987年12月に逝去(82歳)。 研究者としての武村忠雄は統制経済研究・戦争経済研究に専門性を求めることができる。その学問的変遷の端緒は、在学中の加田哲二との出会いに始まり、加田のゼミナール生となった武村は卒業論文でオーストリア派マルクス主義者マックス・アードラー(Adler ,Max)について論じた(増井)。 1928年の経済学部助手就任後は、ヘーゲル(Hegel, Georg W.F.)の論理学やレーニン(Lenin, Vladimir Ilich)の哲学に強い関心を持ち、1932年12月には処女作『マルクス恐慌理論』(春秋社)を刊行する。同書はマルクス理論とヘーゲル流弁証法的論理学の有機的関係性に着目しつつ、恐慌理論の解説に重点を置いた論説であった。 同書刊行後の1933年3月18日に武村は「経済学」研究を目的とする留学に出発し、ナチス政権下のドイツ(ベルリン)へ到着した。ベルリン大学ではユダヤ人教授排斥により、有数の学者が大学を去った状況であり、同年7月には同所での研究を断念してミュンヘンに移り、アドルフ・ウェーバー教授(Weber, Adolf)の研究会(研究会題目:「伊太利ファッシズムの経済組織の研究」)に参加する。 翌1934年にはウィーンへと渡り、同地の教授達から多数の知己を得た後、同年12月にロンドンに赴き、アメリカ経由で翌年3月21日に帰朝した。 この留学を通じて武村に培われた素養は、「乾枯びた理論の代りに生きた経済学が研究されて居り、理論より政策に重点が置かれ」(武村「維納通信」8月31日附書簡)と記したように「生きた経済学」との邂逅であり、留学時に「一番愛読したのがヘーゲルの『論理学』であった」(武村「私の古典」)と述懐しているようにヘーゲル的観点の深化であった。この二つの経験は学問的素養として、後の研究成果へと連綿してゆく。 留学を終えた武村は、1938年12月に主著『統制経済と景気変動:資本主義構造変化論』(有斐閣)を刊行する。同書はドイツ留学中に於けるナチス統制経済の認識に基づいた国際的経済体制の変化を看取した上で「統制経済段階の諸経済現象を体系的に把握し得可き理論経済学の新体系」(同書、1頁)樹立を志したものであり、分析対象とされたのは「統制経済の再生産過程」とそれに影響を与える「景気変動過程」であった。 武村はこの課題に対して「統制経済の再生産過程」を過去の自由資本主義及び独占資本主義の再生産過程の内部的矛盾が止揚された結果現われたものと規定し、自由資本主義から独占資本主義への移行、更には統制経済への移行の過程を景気変動との関連に於いて論じ、高度な統制経済への発展を促している。 同書は「我国に於て全く比類なき最高水準と称して過言がない」(寺尾)と評価され、留学時に薫陶を受けたヘーゲル流弁証法的論理学に依拠しつつ、当時に於ける「生きた経済学」、即ち「現実」的な「統制経済」を理論体系化したものであった。 さらに、武村は、統制経済下での長期戦が、より高度な国家管理経済の成立をもたらすとした。こうした視点から戦争経済の特質を明らかにしようとしたのが『戦争と経済』(慶応出版社、1940年)であり、戦時経済下に於ける国民経済の再生産過程を維持する方法を模索したものである。更に、これに続く『戦争経済学入門』(慶応出版社、1943年)では、再生産過程を維持する為に広域経済圏の確立が促されており、これらの戦争経済研究は、経済統制研究の意義を踏襲しつつ戦中の日本の指針に着目した発展的成果であった。 1940年、以上の研究活動とは別途に、秋丸機関へ参加した武村はドイツの分析を担当する。参加の経緯については「ドイツ経済についての解析力と、武村の収集した戦争経済に関する多量の資料を活用したいということがあった」(増井)と推測されている。 敗戦後に慶応義塾大学を追放となった武村は、1953年に講師への復帰を果たすが、戦前のような理論研究を行わず、経済評論家として景気予測の発表を続けた。その際、「武村にとって経済分析と予測の基礎理論は戦前と同じく再生産論であった」(上久保)と指摘されるように、戦前に培った独特の理論や素養を捨てたわけではなかった。この特性は「私のものの見方がこの本からもっとも強い影響を受けた」(武村「私の古典」)」とまでいわしめたヘーゲル流弁証法的論理学を基盤とした経済観を保ちながら経済学者としての生涯をまっとうした点に於いても同様である。(宮田 純) |
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旧蔵書 |
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出典 / 参考文献 |
寺尾琢磨著「武村忠雄教授著『統制経済と景気変動』」(三田評論. 499号, 1939年) 増井健一著「ひとりの経済学者の思想と行動:第二次世界大戦と武村忠雄」(近代日本研究. 12巻, 1995年) 秋丸次朗著「秋丸機関の顛末」(ECO-FORUM. 16巻4号, 1998年) 有沢広巳著「軍国主義の旗の下で」(ECO-FORUM. 16巻4号, 1998年) 八木紀一郎著「経済学の学術体制」(池尾愛子編『日本の経済学と経済学者:戦後の経済環境と政策形成』 日本経済評論社, 1999年) 上久保敏著『日本の経済学を築いた五十人:ノン・マルクス経済学者の足跡』(日本評論社,2003年) 「目的と歴史」社団法人日本経済復興協会HP http://www.nksk.or.jp/modules/pico/aim.html 「歴代の理事長」社団法人日本経済復興協会HP http:// www.nksk.or.jp/modules/pico/history.html 奥田忠雄著『マルクス恐慌理論』(春秋社, 1932年) 武村忠雄著『統制経済と景気変動:資本主義構造変化論』(有斐閣, 1938年) 武村忠雄著『戦争と経済』(慶応出版社, 1940年) 武村忠雄著『戦争経済入門』(慶応出版社, 1943年) 武村忠雄著「維納通信(1934年8月31日附書簡)」(三田評論. 446号, 1934年) 武村忠雄著「私の古典:ヘーゲル『論理学』」(三田評論. 718 |