人名 金原 賢之助
人名読み Kinbara Kennosuke
生年月日 1898/11/30 (明治31年)
没年月日 1959/1/28 (昭和34年)
出生地 静岡県
専門分野 財政学 国際金融
解説

  金原賢之助は、1897年11月30日、静岡県浜松市に金原俊二の長男として生まれた。浜松商業学校(現・静岡県立浜松商業高等学校)卒業後の1916年、慶応義塾大学理財科に入学、1921年に卒業している。在学中は高橋誠一郎の研究会に所属し、卒業論文のテーマはベーム=バヴェルク(Bohm-Bawerk, Eugen von)とクラーク(Clark ,John Bates)の資本概念論争というものであった。もともと生家は商家であり、日本橋の呉服問屋で数ヶ月間働いた後、志を立てて大学に入り直したという経緯があったことから、入学時より猛烈な学習と優秀な成績で知られ、卒業に際しては学科長の堀江帰一から、当時としては破格な条件での大阪毎日新聞社への入社を勧誘されたという。しかし、金原はそれを断って学究の道を選び、1921年4月、理財科の助手となった。
  金原が最初に公にした書物は、ベルンシュタイン(Bernstein,Eduard)の『社会主義の諸前提と社会民主党の任務』の全訳である『マルクシズム批判』(1925)であった。この訳書には小泉信三が長文の序を寄せているのだが、小泉は後にこの本の翻訳の経緯について、「偶々三田の山で助手級の若い学者の集まつてゐる席上で、私の見たベルンシタインの重要性について語り、誰れかその主著を翻訳して日本の読者に紹介しようといふ人はあるまいか、といつた。直ちにこれに応じて申し出でたのが、当年の金原君であつた」(「修正主義の家元」、千舟会編『金原賢之助君追悼録』所収)と述べている。当時の金原が自己の能力に深い自信を抱いていたことをうかがわせる話であるが、同書が出版される直前の1925年9月、金原は国際金融、外国為替研究のため海外留学に赴き、イギリス、ドイツ、フランス、オーストリア、アメリカなどの各国を回り、1928年3月に帰国した。
  1929年、経済学部教授に就任した金原は『三田学会雑誌』に精力的に論説を発表するとともに、H・ミュラー(Muller,Hugo)の『為替相場と物価』(訳書、1931年)、『金本位制度の動揺と存続性』(1932年)、I・フィッシャー(Fisher,Irving)『アメリカ株式恐慌と其後の発展』(小高泰雄共訳、1932年)、『国際資本及び金融争覇戦』(1933年)、『世界経済の動向と金本位制度』(1934年)などを続々と公刊している。なかでも『世界経済の動向と金本位制度』は、金原の金融経済学者としての名声を確立させた著作と言ってよく、同書により経済学博士を授けられることとなったのである。
  この頃から金原の学外での活動も活発なものとなっていった。1932年末からは財団法人金融研究会の調査研究事業の中心として活動したが、その後、内閣臨時資金調査会、中央物価委員会、通貨安定対策本部委員会、学術研究会議、大学設置委員会などの政府機関や、日本商工会議所、東京商工会議所などの民間機関の委員や賛与を委嘱されている。大蔵大臣や商工大臣から個人的に意見を求められることも多かったという。学術団体では日本金融学会、日本経済政策学会などの理事をつとめた。さらに1942年には東京世田谷の地元住民の切なる推挙により東京市会議員に立候補、最高点で当選を果たし、47年まで都政に参画した。その後、東京および静岡で国会議員となることを一度ならず懇請されたが、学究としての生涯を続けることを本望とした彼は、遂にその道は選ばなかった。
  終戦後は、1946年より経済学部長をつとめ、大学通信教育部の創設に中心的な役割を果たすなど戦後の学園復興に寄与した。また1952年からは義塾常任理事に就任して渉外事務を担当し、塾員組織の再編成と創立百周年記念事業の企画に才能を遺憾なく発揮した。1956年には再び教授職に戻ったが、商学部設置の議が起こるとその準備委員長となり、翌年その発足とともに初代学部長に就任している。しかし、この年秋、ハーバード経営学講座の開設のため奥井塾長らと渡米して折衝に当たった際、口中に痛みを覚えるなどの異常があり、診断の結果舌癌であることが判明、商学部長在任のまま1959年1月28日死去した。
  なお、このほかにも金原の生涯を語る上で、1928年から慶応義塾体育会馬術部の部長をつとめたことを逸することはできないだろう。また彼は慶応義塾在学時代より千舟という号を持つ俳人でもあり、それにちなんで金原の門下生は自らの集まりを千舟会と称した。金原の没後に同会が編集した『金原賢之助君追悼録』には、ゼミナールの恩師高橋誠一郎や小泉信三をはじめ、同世代の園乾治、町田義一郎、高木寿一、門下生の千種義人、村井俊雄など総計四十一名の追悼文が収録されており、慶応義塾の内外で多大な足跡を残した金原の学問と人柄を知る上での貴重な文献となっている。
 (堀 和孝)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 高木寿一著「金原賢之助君の生涯」(三田評論.582号,1959年)
同「故金原賢之助博士の生涯」(三田学会雑誌.52巻3号,1959年)
千舟会編『金原賢之助君追悼録』(慶応通信,1960年)




<写真>福沢研究センター蔵