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人名 |
平井 新 |
人名読み |
Hirai Arata |
生年月日 |
1899/9 (明治32年) |
没年月日 |
2000/3/9 (平成12年) |
出生地 |
福岡県 |
専門分野 |
社会思想史 |
解説 |
平井新は、1899年9月、福岡県に生まれた。1917年3月に修猷館中学を卒業後、慶応義塾大学経済学部に入学、主に小泉信三の指導を受けつつ、社会思想、社会思想史の研究に精励した。卒業したのは1923年3月、その後図書館司書、高等部教員などを経て、1945年4月に経済学部教授に就任している。 さて、平井の学問的業績であるが、学界デビュー作となったのは、『三田学会雑誌』(18巻7、8号)に掲載された「科学的社会主義は如何にして可能なりや 上・下」(1924年)と題する論文である。これはベルンシュタイン(Bernstein,Eduard)が、1901年にベルリン社会科学研究所において行った講演(独文)の翻訳であり、平井が当時から卓越した語学力を有していたことをうかがわせるのに十分な力作である。その後も、平井は、「マルクス社会学説の起源並に之に対するヘーゲル、フォイエルバッハ、シュタイン及びプルードンの影響」(同19巻3号、1925年)、「『共産党宣言』剽窃問題」(同19巻6号、1925年)、「『バボエフ説分析』並にバボエフ及びバボエフ主義文献小録」(同22巻6号、1928年)、「バブウフ主義と秘密結社」(同24巻6号、1930年)などの業績に見られるように、マルクシズムとフランス社会主義を中心に研究を進めた。1933年4月から一年間、慶応義塾留学生としてヨーロッパに派遣された際には、主にパリに滞在して勉学に励んでいる。 第二次世界大戦後、平井は、さらに時代を遡及して「アリストテレスの社会思想」(同45巻4号、1952年)、「社会思想としてのヘブライズム」(同46巻10号、1953年)、「聖トーマスの財産論について」(同47巻12号、1954年)などの論文を発表すると同時に、『共産主義の理論と批判』(1950年)、『社会思想史研究』(1960年)、『近代フランス社会主義の潮流』(1960年)などの著書を公にしていくのであるが、平井について語る上でどうしても触れないわけにはいかないのが、やはり師匠小泉信三の存在であろう。1966年5月に小泉が死去した直後、平井は、「剛強不屈の小泉先生」(『小泉信三先生追悼録』所収)、「社会思想学者としての小泉信三先生」(『三田学会雑誌』59巻11号、所収)の二編を発表している。まず前者の論稿において、平井は、小泉の「剛強不屈」の精神が小泉家の家風や福沢諭吉の感化に負うところが多いと述べつつ、「先生はマルクスよりもフランスの革命的、暴力的社会主義者オーギュスト・ブランキに対して格別に好感をもつていられたように思われる。およそ革命家と呼ばれる人の中でもこのブランキの生涯ほど波乱万丈を極めたものはない。二回の死刑宣告、十五回の訴訟事件、三十三ヵ年余に亘る牢獄生活、十ヵ年余の追放。加うるにあらゆる迫害と中傷。(中略)このような革命的、暴力的社会主義者に革命家でもなく、社会主義者でもなし、暴力主義者でもない先生が好感をもたれるなどとは、まことに不可解に思はれるであろう。それではブランキのどこに魅力を感ぜられたかといえば、それは、いかなる障碍にも屈しない不屈剛強の精神と、社会主義のために却つて祖国フランスの光栄を確信した、烈々たる愛国心であつたと思われる」と指摘している。戦局の悪化に伴い学徒出陣の方針が決した1943年、慶応義塾長小泉が戦地に赴く学生を勇気づけるベく、前年から中断されていた早慶野球戦の実施を承認し、10月16日、戸塚球場で戦時中最後の試合が行われたのは有名な話であるが、そのときの慶応の野球部長が平井であったことを念頭に置いて読めば、この指摘は、戦時中の小泉の行動が深い愛国心に基づいていたことを暗に指摘したものと読める。また、後者の論文においては、小泉が社会思想研究の上に残した業績を、一、フェルジナント・ラッサール(Lassalle,Ferdinand)の研究、二、ギルド社会主義の紹介と研究、三、マルクシズム(共産主義)の研究と批判、の三つに大別して整理した上で、「先生のマルクス批判のすべてが、充分適切かつ妥当であったというのではない。先生の指摘されたマルクシズムの問題点にしても、すでに幾多の学者によって論及されているので、決して先生の意見といえないものがある。しかし、先生の指摘された諸疑問の多くには今日に至るも、なお満足すべき解答は与えられていないという有様である。マルクス研究者は無論のこと、マルクス主義者達も謙虚に先生の批判に傾聴すべきであろう」と述べている。このように、恩師に対する平井のまなざしは敬意と暖かさに満ちている。 平井は野球部長のほかにも、学生部長(1955年〜1961年)、経済学部長(1963年〜1965年)などを歴任した。特に経済学部長在任中には、学費値上げ反対ストに直面するなど、大学紛争の嵐に巻き込まれている。1969年3月に経済学部教授を退任した後も長命を保ち、2000年3月9日、100歳で死去した。 (堀 和孝) |
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旧蔵書 |
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出典 / 参考文献 |
平井新著「剛強不屈の小泉先生」(『小泉信三先生追悼録』,「新文明」発行所, 1966年) 平井新著「社会思想学者としての小泉信三先生」(三田学会雑誌. 59巻11号, 1966年) 「平井新名誉教授略歴および著作目録」(三田学会雑誌. 62巻7号 1969年) 平井新著「浅井清さんを悲しむ」(三田評論. 797号, 1979年) <写真>福沢研究センター |