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人名 |
服部 謙太郎 |
人名読み |
Hattori Kentaro |
生年月日 |
1919/4/6 (大正8年) |
没年月日 |
1987/9/1 (昭和62年) |
出生地 |
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専門分野 |
経済史 |
解説 |
服部謙太郎は、1919年4月6日、父玄三、母英子の長男として生まれた。1932年3月に慶応義塾幼稚舎を卒業、普通部に進み、予科を経て1941年12月に経済学部を卒業している。経済学部では高村象平の研究会に所属してドイツ中世史を専攻した。「学生論文集」に投稿するほど勉強熱心だったので、周囲の学生からは学究の道に進むものと見られたが、家業の服部時計店を継ぐ道を選び、社に在籍のまま1942年2月、横須賀重砲兵連隊に入営。千島ウルップ島で終戦を迎えた。 復員となり東京の自宅に戻ると、当然ながら再び家業に従事しなければならない境遇にあったが、心身ともに「虚脱状態」にあったために休職を申し出、日本史を学び直す決意を固める。それは、「この有史以来の大敗北を喫した日本という国の、これまでの生い立ちを、くわしく知りたいという願望が、強烈に起こってきたから」であった。「日本はこれからどうなるのであろうか。未来の方向を見出すためには、どうしても過去を知らねばならない。日本の歴史を勉強しよう。それにはもう一度、大学にはいり直して、学生として出なおそう。そう決心したのである」(「京の春」、『自然と人と』、株式会社服部セイコー、1988年、所収)。 かくして服部は、1946年4月、京都大学文学部の入学試験を受験し合格する。京都は戦災を免れたとはいえ、そこでの生活も楽ではなかった。食事はトウモロコシの粉のおだんごが多く、底冷えのする冬は下宿で火鉢をかかえて辛抱しなければならなかった。それでも春の美しさは格別であり、「国敗れて山河あり、日本にはまだこんな美しい国土が残されていたのかと、私はあらためて驚嘆する思いだった」(同上)。2年目の春に日本中世史を専攻することに決めたが、この時代の史料は東大の史料編纂所に行かなくては見られないものがかなりあることに気づいたので、卒業に必要な単位は二年間で取得し、3年目は東京に戻って史料編纂所に通い研究を続けた。そして1949年1月に卒業論文を京大に提出、3月に卒業している。 この年にはドッジラインが強行され、下山事件や三鷹事件が相次いで起るなど、世は物情騒然たる雰囲気だった。東大もその例外ではなく、「全学連の指導のもと「革命前夜的」な雰囲気になっていた」。そうした時代状況のなか、「私の能力にふさわしい、地味な研究所のようなところにつとめて、研究をつづけたいものだ」(「赤門」、『自然と人と』、所収)という一心で大学院に進んだものの、その年は希望する史料編纂所の採用がなかったためにその夢がかなうことはなかった。そして紆余曲折の末、1950年4月、教員として母校の慶応に帰ることになるのである。 最初に受け持った講義は、二年生の必修科目である「一般経済史」だった。二百人以上の聴講者を前に話をするのは初めてのことであり、「すっかりアガってしまって、メガネが汗で曇ってきて困った」(「教壇生活」、『自然と人と』、所収)という。服部は、当時の経済史グループの雰囲気を、「相撲で言えば、野村(兼太郎―引用者、以下同じ)部屋といった感じで、高村(象平)関ひとり三役クラスで、あとの七人(宇尾野久・島崎隆夫・服部・宇治順一郎・金丸平八・中村勝己・新保博)はまだ十両にもなれぬペーペーであった」(服部謙太郎「樋籠村の七人衆」、『塾』第10巻第4号、1972年8月)と表現している。この「七人の侍」を急速に親しくさせたのは、野村の所蔵する田中家文書を活用した共同研究であり、その成果は「関東農村の史的研究―武蔵国葛飾郡樋籠村―」として『三田学会雑誌』に掲載された。1951年、副手から助教授に昇格し、新たに三、四年生対象の「工業史」も担当した。また、学外では社会経済史学会の幹事に選出されている。1952年には「日本経済史特殊講義」という題目で、日本中世史の諸問題を取り上げた講義も行った。だが、戦争の痛手から立ち直り新たな方向を模索しようとしていた家業のことも黙視しえず、1952年度限りで大学を辞する決意を固め、教員生活は僅か三年で終わりを告げることとなった。 学究生活はどのような意味を持っていたのかについて、後年、服部はこう述懐している。「結局私の学者としての生活はわずかに三年に過ぎず、たいした研究成果を上げえないまま中途半端に終わってしまった。しかし、それだからといって、この三年間が私の人生に無益であったとは思わない。物事を客観的に見ること、歴史的に眺めること、そして人に自分の考えをわかりやすく伝えること等々の訓練は、必ずや今日の仕事の上にも、生かされていることと確信する」(前掲「教壇生活」)。なお、学者時代に執筆した論文は、『封建社会成立史論』(1958)に集大成されている。義塾を退職した後も評議員として学校運営に関わった。1987年9月1日死去。 (堀 和孝) |
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旧蔵書 |
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出典 / 参考文献 |
服部謙太郎著「樋籠村の七人衆」(塾.10巻4号,1972年) 同『自然と人と』(株式会社服部セイコー,1988年) <写真>服部謙太郎著『自然と人と』』(株式会社服部セイコー,1988年) |