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人名 |
矢内原 勝 |
人名読み |
Yanaihara Katsu |
生年月日 |
1926/3/13 (昭和元年) |
没年月日 |
2003/11/27 (平成15年) |
出生地 |
東京 |
専門分野 |
国際経済学, 開発経済学, アフリカ経済 |
解説 |
矢内原勝は、1926年3月13日、父矢内原忠雄の三男として、東京の大森に生まれた。父の忠雄は植民政策学の専門家で、南原繁の後任として東京大学総長を務めた経済学者であった。府中第一中学校、慶応義塾大学経済学部予科を経て、1947年に慶応義塾大学経済学部入学した。矢内原は、アジア地域の植民政策を研究していた山本登(当時助教授)の研究会に所属し、そこで帝国主義論や大塚史学について熱心に学んだ。学生時代、矢内原は「語学マニア」であり、英語の他、ドイツ語、フランス語、ロシア語、ラテン語、ギリシア語などを時には独学で学んだ。卒業論文は、「世界経済学方法論について」、「理想社会としての共産主義社会」、「資本主義自生とその倫理的条件」から成る三部作であったが、矢内原曰く、これが三部作となった理由は、当時フランス語で読んでいたギュスターヴ・フロベール(Flaubert, Gustave)の“Trois Contes”(1877年)(翻訳タイトル『三つの物語』)を意識したためだったという。 1950年に経済学部を卒業し、経済学部の副手に就任するが、引き続き山本登の下で、旧植民地すなわち発展途上国の経済とその開発理論の研究を本格的に開始する。経済学部の助手に昇任して二年後、1954年に、矢内原は英国文化振興会留学生(British Council Scholar)の選抜試験に合格し、London School of Economics and Political Science(LSE)の大学院に留学した。LSEでは、英連邦統一の経済的側面、とくにスターリング地域機構の最重要課題であったドル・プール問題が主要な研究テーマとなった。当時のスターリング地域機構のドル・プールに対する純寄与者は、ゴムとスズを輸出するマレーシアと、ココア豆や落花生、ヤシ油を輸出するゴールドコースト(現ガーナ)とナイジェリアといった西アフリカの植民地であった。そこで矢内原は奨学金が切れるとすぐにロンドンを発ち、日本に帰国するまでのおよそ三ヵ月の間、ヨーロッパ大陸に続き、実際に西アフリカを一人で旅して回った。この留学と旅の経験は、その後のアフリカのフィールド・サーベイの第一人者と称された矢内原の研究に決定的な意味をもつものであった。帰国後、アフリカ諸国と旧宗主国との間に形成された金融的従属構造の分析に始まり、ココア輸出経済に代表される単品作物経済とその貿易構造、さらに都市-農村間労働移動やアフリカ諸国における構造調整政策など、アフリカ(サハラ以南)経済の研究に特化していくこととなる。その主要な成果が1965年に刊行された初の単著『低開発国の輸出と経済開発』であり、翌年、同名の論文で経済学博士の学位を得て、経済学部教授に昇任した。また、本書とならんで同年に刊行された『金融的従属と輸出経済:ガーナ経済研究』は、ココアの交易条件、輸出機構と金融問題から、ガーナの経済構造の後進的性格を考察したものであり、著者をして、日本におけるガーナ経済研究の第一人者におしあげるものであった。 さらに1976年から二年間、パリ第一大学にも留学しているが、このフランス留学の狙いは、自身のアフリカ研究が英語圏の研究文献に偏重する傾向を是正するためであった。フランス留学を経て、開発理論をベースに、アフリカのフィールド・ワークに基づく実証分析をまとめ上げた集大成が『アフリカの経済とその発展:農村・労働移動・都市』(1980年)である。この著書は翌年、福沢賞を受賞したことを鑑みても、65年の処女作と並ぶ、矢内原の主著といってよい。著者は、本書の経済分析にあたって、気候・風土問題、地力維持を含む農業・土地問題、人口(労働力)問題の重要性から、アフリカ諸国の輸出経済の比較分析をおこない、西アフリカのココア生産の形態が、なぜプランテーションでなく、小農経営によって担われていたかを、ココア生産農民の生活と市場対応から、説得的に説明している。本書では、既存の研究史と著者のフィールドワークから、1965年時点の研究を大きく進展させ、貨幣稼得の機会の大きいココア生産のみならず、自給的な食用作物生産に従事しつづけたかを、移動労働者の労働投入、「伝統的」な分業形態の合理性から、解き明かすことに成功したのである。 矢内原自身が語るように、これらの研究は理論とフィールド調査のたえざる往復とともに進められた。かつて師事した山本登をはじめアジア経済を専門とする開発経済学の研究者の多くが理論分析を必ずしも重視していなかったため、逆に「現状のたんなる記述ではなく、理論分析用具を対象地域に適用することに私の学問上の比較優位がある」と考えたと慶応義塾退任の際に書いている(「退任者のあとがき:謝意と研究の軌跡」、1991年)。理論もなしに途上国の現状・現実をただ記述するだけでは学問にならず、しかし経験的研究による実証もなしに、理論をただもてあそび、現実から目をそらすことも不毛である、と矢内原は折に触れ述べているが、むしろこれは開発経済学者・矢内原の研究に対する一貫した構えであったといえよう。ただし、他方で矢内原は、アフリカの経済社会を捉える場合にも、経済学の領域に閉じこもることなく、カメラを抱え青空市場の雑踏や村の祭りの群集の中に精力的に足を踏み入れ、つねにアフリカの現実に対する新鮮な視角を失わないように努めていたという。前掲の『アフリカの経済とその発展』における詳細な農村経済分析と流通機構分析は、そうした現場主義の成果が見事に実を結んだ研究といえよう。絵画を趣味としていたこともあり、現地の人々の日常生活や街の風景を数多くスケッチブックに収め、リトグラフ作品を集めた個展まで開かれたというエピソードは、矢内原が一対象地域という意味を超えて、アフリカ大陸のもつ魅力に惹きつけられていたことを物語っている(高橋)。 学会活動では、国際経済学会を始め、アジア政経学会、日本アフリカ学会、日本経済政策学会などで幹事や理事、理事長などの要職を長年にわたって務め、自らを「学会の裏方」と称するにふさわしく、熱心に学会の運営に貢献した。1991年に40年余りにわたって在職した慶応大学を定年により退任した後は、常葉学園浜松大学(現・常葉大学)や作新学院大学で教鞭をとり、作新学院大学では1998年から5年間、学長の職も務め、専門職大学院の構想など大学経営に手腕を揮った。学長としての仕事を終えたその年の末(2003年11月27日)、吐血性心不全のため急逝した。享年77歳であった。(桑田学) |
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旧蔵書 |
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出典 / 参考文献 |
代田郁保著「追悼:矢内原勝・前学長を悼む」(作新大学経営論集.第13号,2004年) 高梨和紘著「矢内原勝先生のご逝去を悼んで」(アジア研究.Vol.50 No.2,2004年) 矢内原勝著『低開発国の輸出と経済開発』(東洋経済新報社,1965年) 矢内原勝著『アフリカの経済とその発展:農村・労働移動・都市』(文眞社,1980年) 矢内原勝著「退任者のあとがき:謝意と研究の軌跡」(三田学会雑誌.83巻特別号2,1991年) 矢内原勝(編著)『発展途上国問題を考える』(勁草書房,1996年) 〈写真〉矢内原勝著『国際貿易論第三版』(慶応通信,1994年)より |