人名 新保 博
人名読み Shinbo Hiroshi
生年月日 1923/11/11 (大正12年)
没年月日 2002/2/17 (平成14年)
出生地 東京都
専門分野 数量経済史
解説

  新保博は、1923年11月11日、東京本郷において生まれた。四谷第二小学校、安田商業学校を経て、1941年、慶応義塾高等部に入学。当時は映画、演劇、文学、クラシック音楽に明け暮れ、学問の分野では言語学に対する関心が強かった。慶応義塾大学経済学部に進学直後の1943年12月、学徒出陣により横須賀重砲兵連隊に入営、兵庫県篠山で終戦を迎えた。大学入学時の同級生36名のほとんどが陸・海軍に入隊したが、そのうち戦死者は12名に上った。このことを含めて「軍隊体験は大きなトゥラウマとなった」(「新保博先生自書年譜」、神木哲男・松浦昭編著『近代以降期における経済発展』、同文舘出版、1987年)。
  戦後、家族の疎開する都下の東秋留村(現在の東京都あきるの市)に戻ると、アジアについての自らの理解不足を克服すべく、文学部に転部して東洋史を勉強することを真剣に考慮したが、手続き上の問題もあり1945年10月経済学部に復学、日本経済論を専攻する伊東岱吉のゼミナールに所属する。ゼミでは茨城県下妻での工場調査なども経験し、「前期的賃労働の形成過程」という題目の卒業論文を提出して1947年9月に経済学部を卒業した。
  1949年、慶応義塾大学経済学部の副手に採用されたことを契機に日本経済史を本格的に専攻することとなり、野村兼太郎・高村象平に指導を受けつつ畿内綿作農村の研究に打ち込んだ。翌1950年には、島崎隆夫・服部謙太郎らと樋籠村の共同研究を行う一方で「外国書講読」の講義を担当、1951年5月に神戸大学経済学部助手に採用されたが一年間の内地留学を許され、1952年3月まで義塾で「工業史」と「外国書講読」を担当した。服部によれば、当時の新保は「おとなしくて目立たぬ存在であったが、蔭ではなかなか辛辣な批評家であった」(服部謙太郎「樋籠村の七人衆」、『塾』第10巻第4号、1972年8号)という。
 神戸大学赴任後、同学付属図書館に所蔵されている摂津国八部郡花熊村の古文書の整理に着手し、1954年からは花熊村についての論文も発表し始める。その研究を通して、「史料に即した事実発見に主眼をおき、事実発見の積み重ねのなかから事実そのものが示す論理を明確にしようとすること」が「基本的研究態度」となった(前掲「新保博先生自書年譜」)。「徳川時代の信用制度についての一試論」(1956)に始まり『日本近代信用制度成立史論』(1968)に至る金融史の研究や、「幕末期・明治期の価格構造」(1967)に始まり『近代の物価と経済発展』(1978)へと至る物価史の研究は、このような実証主義的態度の下に生み出されていったのである。
 その間、1971年に慶応の速水融や西川俊作らとともに数量経済史(QEH)研究会を結成。さらにこの両氏とともに『数量経済史入門』(1975)を刊行し、いわゆる「慶応グループ」の一員と目されるようになっていく。ただ特筆すべきは、新保はそのなかにあって、歴史研究に統計的分析を持ち込むことの弊害を早くから自覚していた一人であったことである。それを物語るのが、1982年6月、慶応義塾経済学会において行った「数量経済史の人間化」と題する講演の内容である。そのなかで新保は、次のように述べている。「最近「新しい経済史」(New Economic History)が、冬の季節を迎えているのではないかと言われております。(中略)私もまた「新しい経済史」は冬の季節を迎えているのではないかという気がいたします」。「もし、数量経済史というものが長期にわたる同質の経済的時系列の作成だけに役割を限るということになりますと、「歴史なき計測」(measurement without history) におわり、歴史研究をしないで、計測だけをやっているということになるだろうと思います。「計測なき歴史」(history without measurement)も私はよくないと思いますけれども、「歴史なき計測」はそれ以上によろしくありません。そしてこの「歴史なき計測」の弊害を免れるための1つの方法として、数量経済史の人間化ということがありうるのではないかと思うわけであります」(『三田学会雑誌』75巻5号、1982年10月)。
 新保は、「数量経済史」を「人間化」するために参考になるのはフランスのアナール学派の行き方であると述べ、この講演を結んでいるのだが、その後公にした『寛政のビジネス・エリート』(1985)や遺作となった『近代日本経済史』(1995)は特に、以上のような自戒の言葉を念頭において読まれるべき著作と言えよう。1969年から社会経済史学会理事、1987年に神戸大学を定年退官した後は中京大学経済学部教授を務めた。2002年2月17日死去。(堀和孝)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 服部謙太郎著「樋籠村の七人衆」(塾.10巻4号,1972年8号)
梅村又次・新保博・速水融・西川俊作著「座談会 日本の新しい経済史」(三田評論.778号,1978年)
新保博著「数量経済史の人間化」(三田学会雑誌.75巻5号,1982年)
神木哲男,松浦昭編著「新保博先生自書年譜」(『近代移行期における経済発展:新保博先生還暦記念論文集』同文舘出版,1987年)
数量経済史(QEH)研究会著「日本における社会経済史の発展と新保史学」
(国民経済雑誌.189巻1号,2004年)
長谷川彰,宮本又郎,大倉健彦,松浦昭,神木哲男著「座談会 新保博先生の学問を語る」(国民経済雑誌.156巻3号,1987年)