人名 永田 清
人名読み Nagata Kiyoshi
生年月日 1903/1/27 (明治36年)
没年月日 1957/11/3 (昭和32年)
出生地 福岡県久留米市
専門分野 財政学、経済学史
解説

  永田清
 1903年1月27日に福岡県久留米市山川町に生まれた。1921年に慶応義塾大学経済学部予科に入学し、増井幸雄のもとでフランス経済学を学ぶ。1927年に同学部を卒業、同年4月に経済学部助手として採用され、予科で経済原論、学部では仏語経済学を担当した。
 当初、純粋経済理論を専門として、おもにレオン・ワルラス(Walras, Léon)を基軸に据えた価値論の研究に取り組んでいた永田であったが、1927年末、それまで財政学の講義を担当していた堀江帰一が亡くなると、その後継を託されるようになった。そのため、1931年から約2年間、永田は財政学研究のため、仏・独・英・米に留学する。留学先では、チュルゴー(Turgot, Anne Robert Jacques)など当時まだなじみの少なかったフランス財政思想を学び、また、ベルリン大学ではゾンバルト(Sombart, Werner)の講義なども聴講している。帰国後は、1933年に慶応義塾大学経済学部助教授に、1938年に教授として、おもに財政学とフランス経済学を担当した。また、1939年の平賀粛学の後、東京帝大経済学部から講師を委嘱され、財政学を担当している。
 代表的な著作は、1937年に発表した『現代財政学の理論:既成体系の批判と反省』である。副題が示すように、永田の財政学研究は十九世紀的な財政学への批判に基づいている。その背景には、戦時財政の逼迫や、国民経済の生産力配置において財政が極めて重要な役割を果たすようになるなど、第一次大戦を契機に財政を取り巻く環境が大きく変化していることがあった。永田は既存の財政学がこうした変化に十分に応えられていないとして、その制度記述的な性格を批判的に取り上げるとともに、財政を経済や社会、政治が内的に接触する場として捉える包括的な視点を提示しようとした。財政学をたんに国庫の簿記としてではなく、国庫の背後にある「国家の利益」「社会の福祉」「時局の必要」といった財政を動かす思想やイデオロギーにまで踏み込んで「生きた財政」を把握することを目指したのである。さらに『財政学の展開』(1942年)では、こうした観点に基づき、軍備の拡張とインフレーションの問題や労働振興策の意義など、国民経済が抱えるさまざまな問題について具体的に考察している。
 戦後経済が混乱するなか、1947年慶応義塾大学を退職して、財界に身を転じた。日本ゴム株式会社、福岡製紙株式会社、日新製糖株式会社の社長を歴任するとともに、吉田茂に重用されて経済安定本部長官顧問官を務め、1951年のサンフランシスコ対日講和会議には白洲次郎とともに最高全権顧問として出席している。1956年には日本放送協会会長に就任して、教育テレビ創設に尽力した。研究を離れてから、ますます多忙を極めた永田であったが、1957年12月、日本放送協会会長在任中に54歳の若さで急逝した。
 (山本崇広)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 慶応義塾編『慶応義塾百年史 別巻(大学編)』(慶応義塾,1962年)
上久保敏著『日本の経済学を築いた五十人』(日本評論社,2003年)
<写真>福沢研究センター蔵