|
人名 |
寺尾 琢磨 |
人名読み |
Terao Takuma |
生年月日 |
1899 (明治32年) |
没年月日 |
1984/9/13 (昭和59年) |
出生地 |
静岡県 |
専門分野 |
|
解説 |
1899年静岡県榛原郡相良町(現牧之原市)に生まれる。1924年に慶応義塾大学経済学部を卒業すると、大学院に進学し、1926年に経済学部助手となり、大学予科講師を兼務した。大学、大学院では小泉信三の下で理論経済学を学んだが、助手時代にマルサス(Malthus,Thomas Robert)『人口論(第六版)』の翻訳を依頼されたことが人口理論に取り組む契機となった。『人口論(第六版)』は、小泉信三の監修の下に、伊藤秀一とともに訳業を完成させた。 1929年-1932年までベルリン、パリ大学に留学。ベルリン大学では「安定人口論」の先駆者であったボルトキェビッチ(Bortkiewicz, Ladislaus von)の下で統計理論とともに人口統計分析を学んだ。帰国後、1934年には経済学部教授に就任し、人口論の第一人者として、出生減退理論や新マルサス主義の理論と実践の問題等に取り組み、1940年には『日本人口論』、翌1941年にはマルサス『人口論』の改訳版を寺尾単独の責任の下で完成させた。 敗戦後、ダレス(Dulles,John Fister)特使が「日本が直面する最も深刻な問題」として過剰人口がもたらす社会不安を挙げたように、人口問題は戦後日本が抱える大きな問題となった。そうしたなか1948年に『人口理論の展開』を出版して、戦後の人口制限論の理論的基礎付けを行なうとともに、統計学に関しては日本における草分けの一人として、1939年に『統計学の理論と方法』を出版し、国際統計協会(International Statistical Institute)の会員も務めた。寺尾は、人口学は、人口統計分析(Demography)と人口理論および人口政策が相俟って初めて完全な体系をなすと強調しているが、まさしくこの両面で主導的役割を果たした。 寺尾は、教育にも非常に熱心に取り組んだ。人口論、統計学、計量経済学の分野に多数の門下生を育てるとともに、体育会スキー部長、自動車部長、自治委員会応援指導部長として、長年にわたり慶応義塾大学の体育関係の活動を支えた。また、1948年三月から約五年間にわたり慶応義塾高等学校の初代校長として、戦後の若い世代の育成にも尽力した。 1953年9月に慶応義塾大学に戻ると、経済学部長、経済学研究科長、社会学研究科委員長、国際センター所長などの要職を歴任、また、学外においても日本統計学会長、日本人口学会長、地域開発研究所長を始め、文部省、厚生省関係の各種委員を担当した。 1969年に慶応義塾大学を定年退職した後も、小泉信三、永田清とともに共訳した『ジェボンズ経済学の理論』の改訳に取り組み、また、国際家族計画協力議員として国際会議に出席するなど旺盛な研究意欲を発揮し続けた。1984年9月13日心筋梗塞で急逝した。享年84歳であった。(山本崇広) |
|
旧蔵書 |
|
出典 / 参考文献 |
寺尾琢磨著「日本の人口の現在と将来」(三田学会雑誌.62巻8号,1969年) 森田優三著「故寺尾琢磨博士を偲ぶ」(人口学研究.8号,1985年) 山本登著「寺尾琢磨先生を偲んで」(三田評論.852号,1984年) 西川俊作著「寺尾琢磨」(『慶応義塾史事典』2008年) <写真>福沢研究センター蔵 |