人名 増井 健一
人名読み Masui Kenichi
生年月日 1917/7/8 (大正6年)
没年月日 2001/8/24 (平成13年)
出生地 静岡県
専門分野  
解説

  増井健一は1917年7月8日に静岡県浜松市で生まれた。父は慶応義塾で交通経済学の基礎を築いた増井幸雄である。慶応義塾幼稚舎から普通部、予科を経て、慶応義塾大学経済学部に入学した。大学では武村忠雄のゼミで主に景気変動論を学んだ。この時、父である増井幸雄の「交通論」も受講しているが、交通経済学を専門として取り組むようになったのは父の死後からであった。1940年3月に卒業し、4月から慶応義塾大学経済学部助手となる。同年5月から兵役に服し、海軍経理学校を経て海軍主計士官となる。1945年10月に復員した。1947年4月から慶応義塾大学予科の「経済原論」を担当している。1949年4月に慶応義塾大学経済学部助教授、1955年4月に教授となり、「交通経済学特殊講義」、「交通経済論」、「交通経済学」、「公益事業論」などの科目を担当した。1957年4月には商学部発足と同時に商学部教授となり、「交通論」、「公益事業論」、「海運論」、「空運論」、「国際交通論」などを担当した。同1957年4月からドイツのキール大学世界経済研究所に留学し、アメリカを経て1959年9月に帰国、さらに1966年4月から1967年2月までイギリスに留学している。1969年4月から1971年9月まで商学部長ならびに大学院商学研究科委員長を務めている。教え子に公共政策・国際交通論を専門とする中条潮がいる。1983年3月に慶応義塾を退職し名誉教授となる。同年4月、前年に新設された松阪大学(現三重中京大学)教授に就任し、「交通経済論」などの科目を担当した。1993年3月に松阪大学を退職した後、1994年から1999年まで東京交通短期大学学長を務めた。
 増井の交通経済学研究は広範に渡り、初期には日本における鉄道発展史を取り扱い、また交通費用や運賃の分析のためにピグーやマーシャルを研究している。徐々に関心を海運に移し、ドイツ留学中も主に海運研究を行った。またドイツの交通政策に関する論文も多い。帰国後は航空政策や地方交通なども研究している。1948年には初の著書『自動車輸送論』を刊行。『交通論』(1963年)、『交通経済論』(1968年)、『交通経済学』(1973年)など、交通経済学に関する著作を著した。増井は交通経済論の対象を交通と交通サービスとに区別することを主張し、両者の経済学的分析が独立しうると考えた。交通の経済学においては、人、物、情報の移動が経済的にどのように選択・決定されるのかということが主題となる。それに対して交通サービスの経済学においては、交通のための手段として提供される交通サービスの経済学的分析やその供給の政策決定などが論じられる。こうした認識のもと、増井はとりわけ公共政策としての交通問題の検討を行っている。またそのための手段として近代経済学や産業組織論のアプローチが採用されている。さらに「福沢諭吉の鉄道論」(1979年)では福沢の論説における交通研究を析出し、義塾における交通経済学のルーツを福沢に見出している。
 また経済、統計、港湾、首都圏整備、航空等に関する数多くの政府審議会や委員会で委員を務め、日本の交通政策の策定に深く関わっている。日本交通学会、公益事業学会、日本経済政策学会、地域学会、日本海運経済学会等で活動した。また1973年9月にはドイツ交通経済学会(Deutsche Verkehrswissenshaftliche Gesellschaft)の会員になっている。多くの学会で理事や会長を務めた。1966年から1972年まで日本経済学会連合評議員。2001年8月24日死去。享年84歳であった。(原谷直樹)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 梅村光弘著「増井健一・内山正熊・前田義信 三先生の御退職記念号に寄せて」(松阪政経研究. 12巻1号, 1994年)
中条潮著「慶応義塾における交通経済研究の展開と研究者の系譜」(三田商学研究. 26巻5号, 1983年)
藤井彌太郎著「増井健一先生を偲ぶ」(三田評論. 1041号, 2001年)
増井健一著『交通経済学』(東洋経済新報社, 1973年)
増井健一著「慶応義塾における交通論:最終講義」(三田商学研究. 26巻5号, 1983年)
宮下國生著「増井健一先生を偲ぶ」(海運経済研究. 36号, 2002年)
<写真>福沢研究センター蔵