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人名 |
増井 幸雄 |
人名読み |
Masui Yukio |
生年月日 |
1888/6/18 (明治21年) |
没年月日 |
1944/3/18 (昭和19年) |
出生地 |
静岡県 |
専門分野 |
交通経済学 |
解説 |
1888年6月、静岡県浜名郡に生まれる。1907年、義塾大学部理財科に入学。1912年に卒業後、ただちに助手として採用され、1913年4月に予科教員となる。処女論文は、「一八九六年以来の物価変動の原因」(三田学会雑誌. 11巻7号, 1917年)。1917年3月に、横浜から出国、シカゴ大学、ペンシルバニア大学で、交通政策などを学んだ。その後、1919年4月からはイギリス、同6月からはパリに移り国立図書館でフランス経済学史の研究に従事した。翌年、マルセイユ経由で帰国の途に着いた。増井の貢献は、交通経済学研究とフランス経済学研究の二つに分かれる。慶応義塾において、交通経済学を講じたのはおそらくは気賀勘重をもって嚆矢とするが、増井はこの講座を継承し、後に連なる慶応の交通経済学の基礎を築いた。この領域については、『鉄道運賃論』(1937年)、『交通経済総論』(1934年)がある。また、フランス経済学史研究にかんしては、『ケネー』(1934年)が残された。古典の翻訳としては、『ジャン・バティスト・セイ経済学(上下)』(1925-1929年)があり、この業績によってセイ(Say, Jean Baptiste)の訳者としても増井は知られるに至った。気賀勘重が編集に加わった『経済学大辞書』(1913-1916年)は、経済学史研究の立場からも重要であるが、増井はこの辞書がなるにあたって大きく貢献した。西洋人名全項目482項目のうち、実に196項目が増井の筆になるものである。これは小泉の執筆項目数91項目を大きく上回るものであり、気賀の増井に寄せる信頼の度合いがうかがえる。「交通政策」、「仏語」、「仏蘭西経済学説」、「陸運経営」、「海運経営」、「研究会」などの科目を担当した。1938年、経済学部長に就任。このほか、商業学校、高等部の主任もつとめた。学外においては、日本交通協会理事長、交際交通文化協会理事として、また政府関連の委員としては、運輸専門委員会専門委員、また物価問題を扱った、日本学術振興会の第三八小委員会のメンバーとしても活躍した。1944年没。子息、増井健一も慶応義塾大学の教授として教鞭をとった。(池田幸弘) |
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旧蔵書 |
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出典 / 参考文献 |
中条潮著「慶応義塾における交通経済研究の展開と研究者の系譜」(三田商学研究. 26巻5号, 1983年), 増井健一著「昭和一二-一五年の三田経済学部の先生たち」(近代日本研究. 15巻, 1999年), 慶応義塾編『慶応義塾百年史 別巻(大学編)』(慶応義塾, 1962年), <写真>『慶応義塾百年史 別巻(大学編)』より引用 |