人名 |
高木 正義 |
人名読み |
Takagi Masayoshi |
生年月日 |
1863/2/10 (文久3年) |
没年月日 |
1932/1/29 (昭和7年) |
出生地 |
山形県 |
専門分野 |
社会学 |
解説 |
1863年2月、山形の庄内藩士井村正利の三男として生まれたが、成人後、ニューヨーク領事、同伸会社社長などを務めた高木三郎の養嗣子となり、高木姓となった。東京英和学校(現在の青山学院大学)を卒業後、1888年に渡米し、ニューヨーク州のシラキュース大学に入学した。1891年に同校を卒業し、翌年ジョンスホプキンス大学院に入学し、経済学、社会学を研究した。1895年に博士号を取得し卒業した後、1年間コロンビア大学で特待生として経済学、社会学を研究した。その後、ベルリン大学などヨーロッパ諸国の大学に遊学し、1897年に10年間の留学生活を終え帰国した。帰国後まもなく東京帝国大学文科大学講師となり、社会学講座を担当した。また1899年から1901年までは慶応義塾大学講師を兼務し、文学科、政治科でG.ドロッパーズ(Droppers, Garrett)の後任として「社会学」を、理財科で「貨幣論」、「銀行論」を講義した。また、東京専門学校(現在の早稲田大学)でも社会学を講義している。高木は慶応義塾で「三田経済学会」を設立させ、また、1900年3 月の卒業生送別会・大学倶楽部大懇親会の席上、「人心を鼓舞する力のある塾歌(カレッジソング)」を作ることを提唱し、これが後の塾歌制定の動きにつながった。 社会有機体説を土台とした国家主義的社会学が支配的であった当時、高木の社会学はギディングス(Giddings, F. H. ) を紹介し、わが国に心理学的社会学の萌芽をもたらすものであり、遠藤隆吉、樋口秀雄、小林郁らによるその後の心理学的社会学導入のさきがけとなった。帰国の前年1896年に、わが国で最初の社会学研究組織である「社会学会」が布川孫市らによって設立されており、また翌年、わが国で最初の社会主義研究組織である「社会主義研究会」が設立され、この両会に高木も会員として参画した。当初、社会学と社会主義は、資本主義の進展に伴う社会問題の解決のために共同歩調を取りうるものとされていた。「社会学会」解散後、1898年に加藤弘之、元良勇次郎、高木正義、富尾木知佳、岡百世、武井悌四郎を発起人として「社会学研究会」が設立された。「社会学研究会」は社会主義とは一線を画すようになり、社会改良主義的な立場をとった。高木はこの研究会の実質的な指導者となった。しかし、高木の明治期の社会学会とのかかわりは、明治30年代前半の5 年間に限られており、以降は実業界で活躍するようになった。 高木は社会学会とかかわった5 年間に社会学に関する著作を残してはいないが、いくつかの論文からその社会学構想をうかがい知ることができる。高木は、社会学は「人間の団結より起る現象を支配する一般の法則を研究する学」であるとした。彼の社会学理論は社会現象論、社会組織論、社会進化論の三部に分けることができる。高木は社会を有機体として捉える一方、社会現象論として、社交的現象、人類相互の関係を重視する心理学的社会学の立場を示している。社会組織論では、人々を結合して社会を生成・組織・構成していく力として、心理的勢力・思想的結合力・欲望に基づく社会的結合力が論じられている。また社会進化論では、社会心理的な原因によって社会が進化し、漸次完全な発達の方向に進むとしている。また彼は、社会問題に対して「実際の活動せる社会を実際に究め、之より得たる所は直ちに実行し得べきもの」という立場もとり、いくつかの実証研究を残している。 高木は、社会学が全ての社会的諸科学に一般原理を提供し、紐帯となるものであるとする総合社会学的な立場をとった。社会学と経済学との関係については、経済学を心理的性質のものとしたジェヴォンズ(Jevons, William Stanley)、オーストリア学派などの限界革命以降に顕著になったとして、次のように述べている。すなわち、社会学は社会全体にわたって人間の要求心による心理的作用とその目的を研究するものであり、経済学は社会的現象中、物質的なものに限った人間の要求心の満足すなわち効用について研究するものである。また彼は、社会有機体説に基づく限界効用価値論としてJ. B. クラーク(Clark, John Bates)の社会的有効効用の概念を取り上げている。高木が1895年からコロンビア大学に奉職したクラークに師事したと考えられることが興味深い。 高木は1899年12月、株式会社第一銀行に入行し、翌年に教職を退いた。入行後、高木は、合衆国などに出現しはじめた独占の一形態であるトラスト(企業合同)についての研究(『トラスト』(1900))と、信託会社の業務についての現地調査報告(『米国信託会社業務調査報告書』(1901))を著した。日清戦争後の当時、急速に進展する資本主義の展開において、外資輸入により商工業を興すことが一大世論となっていた。日本の経済事情が海外において十分知られていないため、日本の公債はニューヨーク証券取引所で取扱われていなかった。高木は、ニューヨークにある外国商業のために資本供給している銀行、信託会社と交渉するためには、国際的な信用を得られる信託会社をわが国に整備することが急務であると考えた。 その後、1902年5月に第一銀行京城出張所主任として渡韓し、この頃からは専ら実業界で活動するようになった。1904年に銀行を辞した後、時流にあわせて外資輸入業をはじめとする様々な事業に着手した。高木が取り扱った公私の起債中重要なものは、長野市公債、青森市公債、富士製紙株式会社社債、富士水電株式会社社債、名古屋電燈株式会社社債などであった。晩年は中国大陸、天津に居住しており、1932年天津で死去した。(秋山美佐子) |
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旧蔵書 |
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出典 / 参考文献 |
川合隆男著『近代日本社会学の展開 : 学問運動としての社会学の制度化』(恒星社厚生閣, 2003年), 河村昇著『日本社会学史研究・上』(人間の科学社, 1973年), <写真> |