人名 門野 重九郎
人名読み Kadono Jukuro
生年月日 1867/9 (慶応3年)
没年月日 1958/4/28 (昭和33年)
出生地 三重県
専門分野 商工事情
解説

  門野重九郎は1867年父・門野豊右衛門親賢のもと鳥羽藩(現・三重県)に生まれた。慶応義塾の発展に尽した門野幾之進は12歳上の兄である。子供の頃の教育は殆ど父親によるものであり、小学校へはあまり通わなかった。腕白であったので、慶応義塾で働いていた兄・幾之進のもとへ送られることとなり、1877年に上京して翌年に和田塾(後の慶応義塾幼稚舎)へ入学した。自叙伝である『平々凡々九十年』では、当時の和田塾について回想している。
  1884年に慶応義塾本科を卒業した後、東京帝国大学へ進学した。慶応義塾へ残らなかったのは、この頃義塾教頭であった兄・幾之進の勧めによる。兄がそのように勧めたのは、当時はまだ義塾出身者が実業界で活躍していなかったからではないかと、後に重九郎は回想している。
  東京帝国大学では官費生となり、1891年に工科を卒業した。卒業後は兄の薦めにより渡米し、ペンシルバニア鉄道に勤務した。4年ほど働いた後に離米し、イギリスなど欧州各国をまわって1895年に帰国した。この時イギリスで見たゴルフが、彼の生涯の趣味となった。
  帰国後は東京帝国大学助教授の誘いなどもあったが、山陽鉄道に入社した。学者になることは不向きであると思ったからである。当時の山陽鉄道の社長は中上川彦次郎であった。
  数年の後、面識のなかった大倉喜八郎から面会を求められ、大倉組に入ることになった。この時も兄・幾之進に相談して反対されなかったので転向を決断できたようである。大倉組ではロンドン支店長をまかされ、10年ほど当地で勤務した。帰国するとすぐに大倉組副頭取の地位を与えられた。以後、大倉喜八郎の右腕として、喜八郎の死後は大倉組の大黒柱として活躍した。大倉財閥は、三井・三菱財閥などに比べれば組織が緩慢であり、大倉喜八郎や門野重九郎など個人の力量に依存する傾向が強かったと言われている。
  重九郎は、1911年慶応義塾で商工事情の講義を受け持った。授業の様子は特に伝わっておらず、本人も自叙伝で自身の講義について触れていない。
  日常生活は万事欧米風で、子供との手紙の往復も英文であった。信仰は「極端に近い程、キリスト教信者」(『大倉・根津コンツェルン読本』)であった。『ロンドンタイムス』は日本にいても毎日目を通していたという。
  財界人としては、東亜興業、共栄起業、東京湾土地、東洋毛糸、東京高速度鉄道、中央工業、日本無線電信電話、山東鉱業、金福鉄路公司、東洋モスリン、立川飛行機、日本共立火災、大倉土木で会長や社長を務めた。その他、北海道拓殖銀行や大倉火災海上など20を超える会社で重役を務めた。
 門野は、渋沢栄一、安田善次郎、益田孝など、多くの財界人とも親しく交流を持った。尾崎行雄、犬養毅など慶応義塾の先輩だけではなく、小村寿太郎や伊藤博文などの政界人にも親しい人が多かった。夏目漱石とは、ロンドンで知り合ったという。
 海外通として買われていたので、彼は度々海外に出張している。フランクリン・ルーズベルト (Roosevelt, Franklin Delano) 、イギリスのジョージ5世 (George V) 、ウィリアム・グラッドストン (Gladstone, William E.) 、ジョセフ・チェンバレン (Chamberlain, Joseph Austin)など多くの著名人と交流を持った。また、門野は中国への領土拡張に多くの関心を持った。後の彼自身の説明によれば、20代でアメリカに渡り、その国土の広さに感銘を受けたからである。門野は商業的な領土拡張主義者であった。当時の門野は「打算に過ぎて支那の実情に適せざる嫌ひある米国式投資法を幾何か緩和」して「先づ我国に於て投資を敢行し然る後米国の参加を誘致する」べきであると主張した(「新借款団使命」)。
 1937年には、東京商工会議所会頭に就任した。1941年には、大倉高等商業学校(現・東京経済大学)理事に就任している。太平洋戦争の初期には財界を引退し、東京・板橋から小田原に隠棲した。
 戦後は一時公職追放になったが、その時には日本無線取締役会長と立川飛行機会長という僅かな役職しか務めていなかった。しばらく後、追放も解除になったが、本人は隠棲していたつもりだったので、さほど気にとめていなかったようである。
  門野は死去する2年程前に、自叙伝である『平々凡々九十年』を出版している。題名の通り、彼は自分の人生を平々凡々であったと総括している。彼は1958年4月28日、90年の生涯を閉じた。(坂本慎一)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 門野重九郎著『平々凡々九十年』(実業之日本社, 1956年),
勝田貞次著『大倉・根津コンツェルン読本』(日本図書センター, 再版1999年),
<写真>『東京経済大学八十年史 : 1900-1980』より引用
福沢研究センター蔵