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人名 |
根岸 佶 |
人名読み |
Negishi Tadashi |
生年月日 |
1874 (明治7年) |
没年月日 |
1971/7 (昭和46年) |
出生地 |
和歌山県 |
専門分野 |
中国商工事情 |
解説 |
根岸佶は1874年和歌山県の士族の家に生れ、東京高等商業学校の貿易科で学び、1901年に卒業した。 卒業と同時に、1901年の東亜同文書院創立に際し、上海で教授の任についた。当時は、院長、教頭のほか、教授は3人しかいなかった。根岸は100歳近い長命だったこともあって、晩年には東亜同文書院草創期を知る数少ない人として多くの証言を残している。 東亜同文書院では、中国における調査旅行を立案し、学生と共に内陸部を旅した。この調査の成果は『支那経済全書』全12集として刊行された。当時の日本人は中国の経済・商業の実際に関する知識が乏しかったので、非常に好評を博したという。根岸は同じ頃『清国商業総覧』や『支那交通全図解説』も出版しており、中国の商工事情研究におけるパイオニア的存在であった。 1908年病のため帰国し、機関誌『支那』を創刊して主催した。1911年には朝日新聞社で客員として働いている。1912年慶応義塾大学部理財科で「商工事情」の講義を担当し、1914年から1918年まで再度慶応義塾で講義した。今日でいう非常勤講師のような勤務形態であったと思われる。 理財科では、根岸の後を受けて及川恒忠が1920年より「支那経済事情」を担当している。根岸は慶応義塾を去った後も、及川との共著『支那研究』(1930年)を出版するなど、及川と交流を保った。及川収集による及川文庫にも、多くの根岸の書を見ることができる。 1916年には朝日新聞を辞し、東京高等商業学校教授に就任している。1919年から2カ年欧米に留学し、帰国後同校で「東洋経済事情」「東洋外交史」「満蒙事情」などの講義を担当した。1921年には東京商科大学教授になっている。 1932年には主著とも言える『支那ギルドの研究』を出版し、その評価を不動のものとした。しかし根岸本人はこの書の未熟さを後々まで悔やんだという。1933年には経済学博士になり、1935年には定年により商科大学を退官した。その後もしばらくは同大学で講師として教壇に立ったようである。また、1935年7月の『明治大学一覧』には、政治経済科専門部講師の中に、外交史担当教員として根岸の名がある。また善隣高等商業学校でも、外交史の講師として勤務していた時期があった。 中国研究において、及川恒忠が公式の政治制度や法律に詳しいのに対し、根岸は非公式の制度や慣習的組織について明るかった。根岸によれば、中国はその歴史上君主政治の時代が長かったが、実際はおおむね人民の自治を尊重していた。人民は、血族・郷党・職業などの縁で団体を結成し、自らの生命や財産を保護してきた。根岸は日中戦争の泥沼化も、こうした中国社会の特徴を十分に把握しなかったことが原因であると強く主張した。 また根岸によると、キリスト教は東洋道徳を破壊しようとするものであり、帝国的資本主義諸国は東アジアを侵略しようとするものである。経済のブロック化は必然であり、日本・中国・満州は連合して上層部に統一政府を作るべきであると主張していた(「日満支経済ブロックの建設と通貨政策」1939年)。 論文・著作を非常に多く執筆した根岸であったが、戦後は老齢のせいもあってか、余り作品を残さなかった。1971年7月に死去し、現在は多磨霊園に眠っている。(坂本慎一) |
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旧蔵書 |
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出典 / 参考文献 |
大学史編纂委員会編『東亜同文書院大学史』(滬友会, 1982年), 根岸佶著『上海のギルド』(日本評論社, 1951年), 根岸佶著「日満支経済ブロックの建設と通貨政策」(科学主義工業. 2巻8号, 1939年), <写真>学史編纂委員会編『東亜同文書院大学史』より引用 |