人名 |
岡松 径 |
人名読み |
Okamatsu Kei |
生年月日 |
1850/3/11 (嘉永3年) |
没年月日 |
1916/2/21 (大正5年) |
出生地 |
[東京都] |
専門分野 |
統計学 |
解説 |
1850年3月、江戸の旗本の家に生まれる。修学後の1876年、太政官に出仕し、正院政表課に入った。政表課課長杉亨二は我が国の官府統計の基礎を築いた人物であるが、彼は岡松らとともに公務の傍ら統計学を研究し、また共立統計学校において後進の指導に務めた。正院政表課は1881年に太政官統計院と改称され、岡松は4年後の廃院まで勤めた。1885年の内閣制度創設により、統計院は内閣統計局が引き継ぐことになった。1886年、岡松は農商務省属となり、陸軍省嘱託も兼ね、陸軍経理学校で統計学を講義するようになり、1891年からは陸軍教授を嘱託され、以後20年間務めた。また1895年からは慶応義塾の統計学講座を初代のマイエット(Mayet, Paul)から引き継いでいる。 岡松の統計学研究は、政治統計、産業統計、倫理統計、人口統計に及び、1900年には主著『政治統計学講義』が公刊された。19世紀の近代的政治機構の発達に伴い、政府はその正当性や独立を保持するため、本国と外国との力量を比較し、人民に向かっては財政の一部を負担させるため、国家の有様が公にされるようになった。そのことによって人民も本国と外国の経済、軍事についての利害損得を理解することができると考えられていた。岡松は、国家及び社会の活動に関するあらゆる集合的現象を扱う統計は、政府及び人民にとって欠くことのできないものであると認識した。また、国家の興亡盛衰は、行政立法と切り離すことのできない統計観察の成否によると考え、近代的統計の整備が急務であるとの見解を広めようとした。 結婚、離婚に関する統計もこのような観点から研究された。岡松は、婚姻の多少はその国の強弱に影響するものであるため、政府は人民の婚姻の障害となるものを除去しなければならないとした。なぜなら、人は婚姻してはじめて家を設け家具を整え社会の義務を果し、国家社会の元素、基礎となったからである。結婚及び離婚の分量及び性質は家族生活の幸不幸だけでなく、国家存続の健否にも影響するとされた。 岡松はこのような問題意識によって、我が国の統計学の草創期において統計学術の普及、統計家養成に貢献した。1900年以来、東京統計協会、統計学社が主催する統計講習会が東京や地方で毎年開かれるようになり、岡松もその講師を務めた。彼は生涯を通じて東京統計協会、統計学社の編集委員、評議員、主幹などを務めた。1910年に内閣に設けられた国勢調査準備委員会の委員を命ぜられ、翌年、内閣統計局事務を嘱託された。1916年2月、厳冬の長野県で統計講習会講師を務め、帰京後まもなく死去した。(秋山美佐子) |
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旧蔵書 |
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出典 / 参考文献 |
高橋勝弘著「岡松径君伝」(統計学雑誌, 31巻359号, 1916年) |