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人名 |
野村 兼太郎 |
人名読み |
Nomura Kanetarou |
生年月日 |
1896/3/20 (明治29年) |
没年月日 |
1960/6/22 (昭和35年) |
出生地 |
東京 |
専門分野 |
経済史 |
解説 |
1896年3月、当時の東京市日本橋区に生まれる。1913年、慶応義塾大学部理財科に入学、1918年、卒業と同時に助手として採用され、1925年に経済学部教授となり、以降、「商業史」、「一般経済史」、「日本経済史」、「日本経済学説研究」などの科目を担当。後に夥しい数の著書・研究書を残し、慶応義塾のみならず、昭和の経済史学界をリードする立場に立った野村であったが、当初の研究関心は経済理論、とりわけその価値論に集中しており(処女論文は「経済価値論(1〜3)」、『三田学会雑誌』12巻11号-13巻1号, 1918-1919年)、それはやがてその哲学的基礎にまで遡るものとなっていった。そのなかで野村はリッケルト(Rickert, Heinrich)らドイツ西南学派の哲学に接近し、その日本への紹介者ともなったが、次第に抽象的な哲学論に飽きたらなくなり、それが現実の人間の歩みにどのように実証できるかとの欲求が生じてきたようである。こうして野村は経済史研究に向かうことになった。1923年、欧州留学に出発、イギリス歴史学派の泰斗アシュレー(Ashley, William James, Sir)を訪ね、その紹介でケンブリッジ大学のクラパム(Clapham, John Harold, Sir)に師事、そこで実証主義的な歴史研究の方法を体得するとともに、イギリス経済史の研究に従事する。その成果は学位論文となった大著『英国資本主義の成立過程』(1937年)となって結実したが、その実証重視の研究姿勢の徹底は徐々に外国の歴史研究そのものに限界を感じさせ、それが野村をして日本を対象とする研究に向かわせていった。かくして野村の実証的な歴史研究は、戦前より精力的に蒐集した膨大な近世史料を復刻収録した『五人組帳の研究』(1943年)、『村明細帳の研究』(1949年)に至って一つの頂点を迎えたが、この時期、野村の研究のもう一つの柱となったのが『徳川時代の経済思想』(1939年)に代表される日本経済思想史研究であり、滝本誠一の『日本経済大典』に依拠しつつ、江戸時代を中心とする日本の経済思想の体系的な把握を目指した。1942年、経済学部長、1944年、図書館長に就任。また1930年、社会経済史学会の創立に参加し、理事をつとめ、1946年、代表理事に就任。1960年、死去。 以下、イギリス経済史、日本経済史、日本経済思想史という三つの領域にまたがる野村の歴史研究者としての業績を概観する。まず、その出発点となったイギリス経済史研究では、イギリスにおける資本主義の成立に関して商業・貿易等の流通過程を重視し、こうした商業資本の発達に近代資本主義の成立の基因を見ようとする。こうした商業資本の役割を強調する野村の見解は、明治以降の日本の西洋経済史研究の流れに沿ったものであり、後に大塚久雄の批判を浴びることとなったが、外国の研究者の概説の翻案ないし紹介にとどまっていたそれまでの研究水準を、ともかくも日本人の手による実証的な歴史研究にまで引き上げた功績は決して見過ごすことはできない。つぎに日本経済史研究では、特に江戸時代の経済史における根本史料の重要性を主張し、その取り扱い方についての方法論を確立した。それまでの研究の大半が農書や当時の学者の著書を史料として利用するにとどまり、いわゆる村方文書等の根本史料をほとんど利用していない状態にあったが、野村は武家文書、商人文書、村方文書など各分野にわたる膨大な近世文書の精力的な蒐集をおこない、こうした史料を積極的に復刻・紹介した。このような史料重視の研究姿勢は、野村のこの分野における研究が個々の事例についての資料紹介の形式をとり、これに立脚する総合的な叙述を欠いたこともあって、独自の史観の形成や斬新な解釈の提示には至らない憾みがあった。しかし、これは野村自身が個々の歴史的な現象が有する複雑多様性を力説し、安易な断定を嫌い、理論の事実認識への先行を排した結果でもあり、史料を徹底して重視しながら、そこへ厳密な史料批判のメスを入れて実証資料としての限界を明らかにする研究方法は、この分野に科学的方法を吹き込んだパイオニアの一人として評価されている。最後に日本経済思想史研究であるが、この分野では個々の思想家についての個別的な研究を進めるとともに、江戸時代における経済思想の流れを全体として体系的に把握しようとする意図に貫かれていた。ここには思想史の対象となるものは単なる個々の学説ではなく、一つの集団または一定の時期についての「全体的思想」である、との野村の考えが反映されていたが、他方、既に滝本誠一らによって研究の史料的な基礎が固まっていたことも大きい。野村は江戸時代の経済思想について商業肯定論と否定論の対立・展開にその本質を求めたが、さらに維新以後の西洋思想の導入・受容に関して、それを可能にした思想的準備が江戸時代の思想的発展のなかにおこなわれていたとする「連続説」的な見方を示していたことも注目される。(三島憲之) |
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旧蔵書 |
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出典 / 参考文献 |
野村兼太郎博士追悼(三田学会雑誌. 53巻10,11号, 1960年), <写真>高橋誠一郎『随筆慶應義塾 : エピメーテウス抄』より引用 福沢研究センター蔵 |