人名 小幡 篤次郎
人名読み Obata Tokujiro
生年月日 1842/6/8 (天保13年)
没年月日 1905/4/16 (明治38年)
出生地 大分県
専門分野  
解説

  小幡篤次郎は、1842年豊前中津藩の上士・小幡篤蔵の次男として生れた。青少年時代には、藩儒・野本白巖に学び、1858年には藩校・進修館の塾長を務めた。1864年6月にその職を辞し、福沢諭吉の説得により弟・甚三郎らと共に江戸へ出府、慶応義塾に入社する。福沢は小幡の母に対し、江戸の方が養子の口が多いと言って出府を説得した。
 1864年から慶応義塾塾長を引き受け、また幕府開成所英学教授手伝に出役した。1868年上野戦争の際、慶応義塾ではウェーランド(Wayland, F)の『経済学』が講義されていたが、その時の講師は福沢ではなく小幡だとする説もある(津田権平の説)。同1868年弟・甚三郎と共に『英文熟語集』、単著で『天変地異』も出版した。1873年留学中の弟・甚三郎は、アメリカで客死した。同1873年にはトクヴィル(Tocqueville, A)著『アメリカの民主政治』の部分訳である『上木自由論』を出版。1876年ころ、私的会合である講話会を森下岩楠と催してこの書を講じた。1874年には、三田演説会幹事に就任し、後に会頭になっている。1876年東京師範学校中学師範科(のちの高等師範学校)創立に参加して、教授監督の任に当たった。同1876年、義塾内の集会所である万来舎設立の際には、「万来舎之記」を書いた。この万来舎での法律の議論は、有志により東京専修学校設立へ発展した。
 1871年、旧中津藩主の奥平家が中津市学校を創立する際、小幡は中上川彦次郎らと共にその実務にあたった。この時、中津の人々向けに発表された小冊子が、後の『学問のすすめ』初編である。同編は、福沢と小幡の共著のかたちをとっているが、これは、新しい学問を中津に普及させるに当たって、福沢が、小幡の旧藩時代の身分格式と人物見識についての高い評判を考慮した措置であった。小幡はこの時半年ほど中津に滞在し、初代校長も務めた。1883年学校が廃校になる際も、中津に赴いて後処理に努めた。
 1877年、小幡は欧米各国を巡歴する旅に出た。1878年には、杉亨二らと製表社を創設し、統計学の研究に寄与した。これは1880年には統計協会へと組織変えする。1879年には東京学士院会員に選ばれている(1881年辞任)。1880年には交詢社創立に尽力して、幹事に就任した。1881年には、明治生命保険会社の設立に関与した。1882年時事新報社の創立にも参画し、新聞の活字拾いまで手伝った。同年立憲改進党の結成にも加わった。1883年には中津開運社を設立している。
 1889年に塾長小泉信吉が病気療養中のため、代理を務めた。1890年国会開設と共に貴族院勅選議員になり、後に貨幣制度調査委員なども務めた(1899年)。また同じく1890年には慶応義塾大学部開設に伴って、塾長に就任している。1891年小幡の発案で慶応義塾商業学校が創立された。
 生涯にわたって福沢を助けたが、1897年大学部存続が問題化した時は福沢と意見を対立させ、塾長と評議員会を辞任している。翌年に義塾副社頭に就任した。
 1898年、福沢は一時危篤となり、小幡は福沢に「大観院独立自尊居士」の戒名を定めた。1899年小幡らが発起人となって、第1回慶応義塾同窓旧友会が開催された。
 1899年、福沢の意を受け小幡らが中心になって、「修身要領」の編纂が始まった。翌年、「修身要領」は完成し、三田演説館で発表された。この時福沢は慶応義塾を廃校し、土地と建物を売却した資金で、「修身要領」普及運動の活動資金にしたいと申し出たが、小幡らの反対で退けられた。
 1901年福沢諭吉死去の際は、代表して「先生言行の基づく所は実に独立自尊の一主義に外ならず」と弔詞を述べた。同じ年、慶応義塾維持会を組織し、義塾社頭にも就任した。1905年、胃ガンを患い死去。自選の戒名は「箕田庵寅直誠夫居士」。「箕田」は小幡の号である。以後しばらく義塾社頭は空席となった。辞世の句は「花に負き雁と己とは旅寝かな」。1909年には小幡の遺志により、中津に小幡記念図書館が開館した。この図書館は、場所を移転して今日も存続している。
 高橋誠一郎の証言によれば、福沢は寛容であったが小幡は厳しかった。また小幡は酒を余り飲まず、大食いであったと門野幾之進は証言している。1878年頃、大食いと力自慢の人が集まる六碗会という小幡中心の私的会合があったが、小幡は食でも腕力でも周囲を凌いだ。家族には優しく、見合い結婚した安井氏は、もう一人の候補より年上であったことを理由に娶った。趣味は詩書や庭園花卉を見ることだった。著訳書は他に『洋兵明鑑』(共訳1869年)、『博物新編補遺』(1869年)、『生産道案内』(1870年)、『経済入門』(1877年)、『英氏経済論』(1871-77年)、『小学歴史』(1877年)等がある。(坂本慎一)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 慶応義塾編『福沢諭吉書簡集』第1巻(岩波書店, 2000年),
大分県教育会編纂『大分県人物志』(歴史国書社, 1976年),
石河幹明著『福沢諭吉伝』(岩波書店, 1932年),
財団法人小幡記念図書館編『小幡徳次郎先生小伝』(小幡記念図書館, 1926年),
津田権平編『新聞投書家列伝初編』(小宮山昇平, 1881年),
「小幡先生逸話(一)〜(十)」(時事新報. 7742 - 7757号, 1905年),
<写真>慶応義塾写真データベース