人名 須田 辰次郎
人名読み Suda Tatsujiro
生年月日 1853/6/1 (嘉永6年)
没年月日 1928 (昭和3年)
出生地 大分県
専門分野  
解説

  須田辰次郎は、1853年豊前中津で、同藩士須田五郎右衛門のもとに生れた。幼少の頃に『論語』中の漢字を全て暗記したと伝えられる。長じて後、藩校である進脩館で学び、塾頭も務めた。慶応義塾には、1869年に入社している。
  1870年夏、須田は中上川彦次郎、小幡英之助と共に、福沢諭吉よりも早く断髪を決行した。その後、塾生にまげを切る者が続出して、義塾がひいきにしていた床屋は夜逃げをしたという逸話がある。須田は最初期の慶応義塾を知る代表的人物の一人であった。彼の当時についての証言は、石河幹明著『福沢諭吉伝』や『三田評論』などで見ることができる。
  1872年中津市学校が設立されるころ、須田は病気のため中津に帰郷していたが、学校開設に伴い、小幡篤次郎、中上川彦次郎等と共に同校で教鞭をとった。やがて慶応義塾に戻り、修学の傍ら教壇にも立った。1874年には、甲斐織衛と共訳で『幼童教のはじめ』を出版、翌年には、津田純一と共に『耶蘇教排撃論』を翻訳出版した。同年に東京師範学校に中学師範科が設立されると、後藤牧太、藤野善蔵とともに英語担当になった。
  1874年に発足した三田演説会では、発足当初からこれに加わっていた。須田の証言によると、当時は福沢諭吉の家や会員宅などに、毎週ないし隔週土曜日、十人ほどが集まって演説会を開催していた。当初は一般の傍聴は許さず、会員だけの集まりだったが、後に塾の生徒には公開して、第一回演説会が開催された。第一回以降は、公式の記録に残っている。
  1878年11月から週2回開かれた「慶応義塾講義会」では、トクヴィル(Tocqueville, Alexis de)の英国政体論を講じた。1880年交詢社設立の際は、創立事務員となり、社員募集のため、東海・北陸地方を遊説して歩いている。
  1882年『時事新報』創刊の際は、編集員を務めた。西谷虎治の証言によれば、編集局の一番上席に中上川彦次郎が座り、次に森下岩楠、その次に須田が座っていた。西谷は、当時の須田を「顔の長い口髯を上に巻き上げて額の少し抜け上った温和な紳士」とか「口数こそ少いが終始にこにこした人懐かしそうないい人」(『福沢諭吉伝』)と表現している。
  1885年より再び教育界に戻り、福岡県、神奈川県、岩手県、佐賀県の師範学校校長を務めた。1891年には『教授之正誤』という本を翻訳出版している。須田は「緒言」において、この書がカナダの風俗人情を考慮して書かれたものであることを断り、読者は「取捨折中」して読むべきであると説いている。
 その後、須田は実業界に移り、いくつかの会社の要職を歴任した。須田の英学は、留学経験者が台頭するに伴い、次第に役割を終えたものになっていったようである。実業家としては、義理を重んじて利を軽んずる傾向にあったので、華々しく活躍することはなかったらしい。1928年に没している。(坂本慎一)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 石河幹明著『福沢諭吉伝』(岩波書店、1932年),
慶応義塾編『福沢諭吉書簡集』第2巻(岩波書店, 2001年),
三田商学研究会編『慶応義塾出身名流列伝』(実業之世界社, 1909年),
<写真>慶応義塾出身名流列伝