人名 森下 岩楠
人名読み Morishita Iwakusu
生年月日 1952/1/31 (昭和27年)
没年月日 1917/3/28 (大正6年)
出生地 和歌山県
専門分野  
解説

  森下岩楠は1852年1月31日和歌山藩士長谷元之助の次男として生れ、1862年に、同藩士森下紋左衛門の養子となった。1869年に和歌山より上京、1870年2月6日に慶応義塾に入社する。1873年ころ教員になったようであるが、この頃の義塾はお互いに教えあう形式を取っていたので、今日でいう教員とは形態が異なっており、詳細は不明である。また、同じ時期、1873年8月には『初学人身窮理』という本を共訳出版している。
  森下は最初期の三田演説会にかかわり、1874年9月26日から1874年10月31まで三田演説会書記に就任している。このころの書記は、交代で行っていたようである。1876年9月には慶応義塾塾長に就任し、一年余り後1877年12月に辞任している。
  1878年岩崎弥太郎と共に、三菱商業学校の創設に関与し、校長も務めた。この当時の著作として、1878年12月に『簿記学階梯』、1880年4月に『理財雑録初編』を出版している。
  1881年1月大蔵書記官に就任したが、いわゆる明治十四年政変により同年11月には退官、その後、1882年3月1日には時事新報に入社した。1883年5月に『経済原論』、1884年8月に『民間簿記学』を出版している。
 1889年10月5日には慶応義塾評議員に就任、また、1890年9月、理財科において「日本作文」の講義を担当している。1891年5月には慶応義塾商業学校が創立されたが、最初期の教員として名を連ねて、同校の幹事にも就任し、1898年まで務めた。
 1892年2月故郷の和歌山で『紀州日報』の発行を計画したが、ついに実現しなかった。1892年5月には、衆議院議員選挙に和歌山市から立候補したが、落選。地元の組織票に絡めなかったことが敗因のようである。
  1896年、東京興信所の創設に関与し、渋沢栄一らの推薦により所長に就任した。1907年4月、アメリカの興信所を視察するため渡米している。東京興信所は大阪の商業興信所と合併するなどして順調に成長し、森下の名声も次第に高まっていった。森下は日本における興信所の先駆者であり、財界人としての活躍は興信所における功績が最も大きい。
 1901年福沢諭吉逝去の際には、慶応義塾維持会の設立に関与している。森下自身は1917年3月執務中に発病し、28日に死去した。享年66歳。『時事新報』の死亡記事は、森下の肩書きを「交詢社理事、東京興信所長」としている。役職は、ほかに帝国水産会社理事、東京米穀取引所顧問、帝国生命保険会社顧問なども歴任した。4月1日に行われた葬儀には、渋沢栄一、鎌田栄吉、阿部泰蔵、門野幾之進など著名人を含む二千人が訪れた。著作は他に『商用文例』(1893)などがある。(坂本慎一)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 丸山信「実業教育の先駆者森下岩楠」(三田評論. 603号, 1962年),
「森下岩楠氏死す」(時事新報. 12079号, 1917年),
<写真>丸山信「実業教育の先駆者 森下岩楠」より引用