人名 横山 雅男
人名読み Yokoyama Masao
生年月日 1862/12/16 (文久2年)
没年月日 1943/2/12 (昭和18年)
出生地 広島県
専門分野 統計学
解説

  横山雅男は杉亨二の弟子として統計学を学び、研究者としてだけではなく、教育者として、実務家として、統計学を広く世に知らしめ、日本における統計学黎明期を支えた人物である。杉亨二が日本における統計学の開祖であるならば、横山は統計思想の啓蒙・普及の功労者と言えるだろう。
  横山雅男は、1866年12月、広島県に横山彦太郎の四男として生を受けた。広島県師範学校を卒業し、郷里において小学校教員を務めたあと、16歳のときに上京している。横山は、上京してから、毎日のように弁当を携えて図書館に通いつめては、朝から晩まで熱心にさまざまな種類の本を読み耽っていたようである。その際、偶然手にした2、3冊の書物が、その後の横山の人生を決定付けることとなる。このとき横山が手に取ったのは、箕作麟祥訳の『統計学』や津田真道訳の『表記是綱』などの統計学書であった。この書物によって横山ははじめて統計学の存在を知ったのである。
  当時、統計学の存在すら知らなかったのは、なにも横山に限ったことではなかった。明治後期においては、統計学はまだまだ新奇な学問であり、「政表」,「表記」,「形勢学」などとさまざまに呼ばれ、訳語すら定まっていなかったのである。そのような状況のなか、共立統計学校が設立されたのは、横山が統計学に出会った翌年、1883年のことであった。共立統計学校とは、統計学の専門家を育成することを目的として、杉亨二が中心となり、岩崎弥太郎や渋沢栄一,三井八郎右衛門など、広く84名の有志者を募って設立された学校である。横山は、この新設の共立統計学校の募集広告を目にして、「此の珍しい学問を学びたく心が動いた」と述べている。横山は、すぐに入学試験を受け、共立統計学校の第一期生として3年間本格的に統計学を学ぶこととなる。統計学校では主に、統計の歴史及び理論、人口統計、生命統計、経済統計、社会及び政治統計、道徳統計が教えられたようである。共立統計学校はわずか第一期生を輩出してすぐに廃校となるが、運良くも横山はその第一期生として世に出ることになったのである。
  統計学校を卒業した後、横山は実地商業夜学校をはじめとして、専修学校や大日本私立衛生会で統計学の講師を務めている。その他にも慶応義塾大学,東京郵便電信学校,陸軍大学校、または、中央および地方統計講習所など数多くの学校で教鞭を執り、統計学の教育に尽力した。なかでも陸軍大学校とならんで慶応義塾大学では約20年間にわたって統計学を講じている。慶応義塾大学では1892年に統計学が開講され、P・マイエット(Mayet, Paul) が担当し、つぎに岡松径が、1898年からは呉文聡が教壇に立っていた。横山は、呉が1900年アメリカに統計の実情を視察にいった際に代講を勤め、1916年に呉が脳溢血で倒れたために、その後任として統計学を担当することとなった。その講義内容は統計の理論・方法を教えるというよりも、統計データによって社会の趨勢を明らかにしようとする「応用統計」的な側面が強いものであったようである。横山にとって、統計学は「社会の羅針盤」であり、また彼は、深遠かつ斬新な理論よりも「とかく平凡視されやすい世俗のことに尊いものの存在せる」と考えており、上記の講義内容は、この横山の統計学観があらわれたものであったと言えるだろう。
  大学などで専門教育を担当しただけではなく、横山は、統計学の普及を目的として、その大意を簡便な方法で教える統計講習会をおこなっている。この統計講習会とは、当初は陸軍省内で行なわれていたものであるが、その後広く受講者を募り、全国で開かれることとなった。横山は統計巡講と称して、各地で開かれる統計講習会の多くに足を運び、講義を行なっている。横山は、ほぼ全ての都道府県に足を運んでおり、講義を行なった講習会は約八十回、朝鮮半島にも三度も講義に訪れている。統計講習会は各地で評判を得て、地方の統計協会の設立を促し、統計学の普及に大きく貢献するものであった。
  横山は明治22年以来生涯を通じて、スタチスチック社・統計学社および東京統計協会の常任委員・評議員・幹事を務め、特に大正15年から昭和9年までは統計学社の社長として編集を行い、また自ら執筆して『統計学雑誌』を支えつづけた。横山は、その雑誌に数多くの随筆を載せている。統計小言や鉄研漫筆などと題された随筆は、ときには統計巡講で訪れた地の歴史について記し、ときにはその時の政治や事件について統計を用いながら分析しており、世相についての所感を統計を交えながら短かく纏めたものである。この随筆は、統計を無味乾燥なものとしてではなく、社会の明鏡であるとする横山の姿勢の現れといえるだろう。横山は次のような「統計家の座右の銘」を残している。
  一、統計は国家社会の真相を得ることを努べし。二、常に読書し殊に新知識を蓄ふべし。三、実務を励みて尊き経験の大なる事を思ふべし。四、数字は一字の誤りもその影響の大なることを思ふべし。五、数字をして自ら語らしむるよう注意すべし。六、世態人情習慣等に精通すべし。七、数字は正しく書くべし。八、謹直かつ熱誠なるべし。九、政党政派に超然たるべし。十、弁舌および文筆に熟練すべし。
  横山雅男は1943年にこの世を去っている。(山本崇広)

旧蔵書  
出典 / 参考文献 横山雅男著「統計学の座右銘について」(統計学雑誌. 513号, 1929年),
横山雅男著「慶応大学を退くにあたりて」(統計学雑誌. 551号, 1932年),
加地成雄著「逝ける横山雅男先生を追慕して」(統計学雑誌. 681号, 1943年),
西川俊作著「統計学-福澤諭吉から横山雅男へ」(近代日本研究. 8巻, 1991年3月),
<写真>「統計学雑誌」58号より引用 福沢研究センター蔵