|
人名 |
滝本 誠一 |
人名読み |
Takimoto Seiichi |
生年月日 |
1857/9/27 (安政4年) |
没年月日 |
1932/8/20 (昭和7年) |
出生地 |
東京都 |
専門分野 |
経済史研究 |
解説 |
滝本誠一は、日本の社会科学が制度化される前後に生きた学者であった。現在、滝本は、経済史研究、特に日本経済史・日本経済思想史研究の第一世代として位置づけられ、またその編著『日本経済大典』全五十四巻などは、何世代にもわたって利用されづけるものである。しかし、滝本は、そのような、現在の一般的評価を越える広がりをもった学者であり、それは、彼の時代の過渡的な一面を象徴するものでもあった。 第一に、滝本の人生と学歴には、過渡期の特質がよく現れている。年譜に見るように、滝本は、1857年に江戸麻布龍土町の宇和島藩邸で同藩藩士の子として生まれている。修学後には、学校教員、新聞記者、シェークスピアの翻訳者、雑誌発行者などの職を遍歴し、その間、千葉で開拓事業に従事したこともあった。このような経歴を経て、本格的に大学で教鞭を執るようになったのは、1914年に同志社大学教授に就任した時で、その時すでに五十七歳であった。その後、滝本は、大正期の学者として、日本経済史を開拓する仕事を次々と行うが、その仕事の端々には、彼のそれまでの歩みが自ずから反映している。その一つとしては、武士として生まれた、最後の世代の学者という特色もあるかもしれない。『日本経済大典』の解題を通して見てみると、一面では、古典派自由主義経済学的な要素を、日本の経済思想に捜そうとしている面がありながら、他方では武士的教養に対する強固な信頼が流れている。 滝本の学歴は、現代の基準から言えば極めて変則的なものであった。初学期に可成りの漢学教育を受けたことは想像に難くないが、近代学制に則った教育は宇和島郡立不棄学校のみであった。そこで、1874年から、中上川彦次郎や渡辺恒吉という慶応義塾出身者に英学を習ったことをもって、後の1881年に慶応義塾卒業生の資格を与えられ、英語教員として和歌山市自修私学校に就職したのである。したがって、滝本の経済学や経済史についての学識は、すべて、その後の、独学によって形成されたものと言ってよい。 滝本の学問も、過渡期の姿を、よく現している。本人が執筆した履歴書によれば、滝本が経済学に志したのは、1892年頃からであるが、その頃の、滝本の関心は古典派経済学であったようである。しかし、明治の末年には、既に経済史を主要な課題としていた。しかも、彼の経済史研究は、ヨーロッパに関する著作もあるように、単に日本という枠に収まらない広い関心に基づくものであった。このような、彼の古典派から経済史への傾斜は、恐らく、海外に於ける、新歴史学派の展開や、それを慶応義塾に伝えたドロッパーズ(Droppers, Garret)や福田徳三などからの間接的な刺激があったのではないかと考えられる。また、明治経済社会の展開とともに、普遍的経済理論では解決できない問題が目に見えてきて、日本の社会を歴史的に考察する必要性が感じられてきたのかもしれない。ただし、滝本の経済史への傾斜についての以上の見解は、推測に過ぎず、今後の研究を待たなければならない課題である。また、その課題は、日本における経済史学の誕生に一筋の光を当てるものともなるはずである。 以上のような、滝本の経歴を踏まえて、その特質を整理するならば、第一には、良い意味でのディレッタンティズムあるいはアマチュアリズムとも呼べる広い関心と知識が基礎にある点だろう。彼は、学問は、「よき物も、悪しき物も一つに取込みて、入用に随って取り出す」乞食袋のようなものでなければならないと言っていたが、そのことは、彼の姿勢をよく示している。また、野村兼太郎によれば、滝本は誰もが認める座談の名手でもあったというが、このことも彼の教養の性格を示している。第二の特質は、そのようなディレッタンティズムを一方で持ちながら、晩年のライフワークとなっていった仕事が、日本経済思想史や経済史に関する史料集の編纂という、極めてアカデミックな作業であった点である。その意味では、彼の史料集が、アカデミズムのためのアカデミズムではなく、ディレッタンティズムから必然的に生まれたアカデミズムであった点が銘記されるべきであろう。(小室正紀) |
|
旧蔵書 |
|
出典 / 参考文献 |
「滝本誠一履歴書」(慶応義塾蔵), 野村兼太郎「滝本博士逝く」(社会経済史学. 2巻6号 1932年9月), 雑報「滝本誠一氏の訃」(三田評論. 419号, 1932年), <写真>「経済史研究」21巻1号より引用 福沢研究センター蔵 |