人名 名取 和作
人名読み Natori Wasaku
生年月日 1872/4/28 (明治5年)
没年月日 1959/6/4 (昭和34年)
出生地 長野県
専門分野  
解説

  名取和作は、信州諏訪郡上蔦木(かみつたき)落合村にて名取和三郎の長男として、1872年旧暦4月28日に生まれた。福沢諭吉の姉・婉の長女である澄が、福という娘をもうけたが、この福が名取和作の妻である。名取からみて、妻の母方の祖母の弟が福沢諭吉に当たる。名取の妻の叔父が、中上川彦次郎であった。
  実家は造り酒屋で、当初は裕福であった。しかし松方デフレにより実家は没落し、困窮する。名取はこのころ、甲府市の第十国立銀行に就職したらしいが、詳細は不明である。後に上京し、慶応義塾に入塾する。慶応を選んだ理由は、当時「東洋一の月給とり」といわれた中上川彦次郎にあこがれたことによる。学生時代は新聞配達などをしながら、柔術に熱中したようである。
 慶応義塾大学部理財科卒業後、一旦は古河鉱業に入社した。当時慶応義塾では、教授をお雇い外国人に頼るのではなく、自塾内より養成することが目標となっていたため、1899年慶応義塾の第1回留学生募集が行われた。名取は、慶応の先輩である朝吹英二のすすめでこれに応募し、合格する。青木徹二、堀江帰一気賀堪重らと渡米し、コロンビア大学に入学した。同大学では、理論経済学を専攻して勉学に専念する。ジョーン・ベイツ・クラーク(Clark, John Bates)には、直接師事した。2年後さらにベルリン、ロンドンを視察して帰国、すぐに慶応義塾大学部理財科教授に就任した。
  教授としては、純正経済学、商工事情、経済原理などを担当し、野球部長も務めた。純正経済学の授業では、クラークの『富の分配』(1899年)をテキストとした。しかし、授業が難解すぎたため、学生には余り好かれなかったらしい。1908年教授職を辞任し、東京電灯に入社する。教授としての生活は、自分に不向きであると認識したためである。
 名取は、企業へ移ってからほどなくして慶応義塾への寄付を始めた。以後、晩年まで数十回にわたり、義塾への資金援助を惜しまなかった。名取は周囲に「慶応には、留学させてもらったお礼を教師として果たせなかったから」と語っていたようである。
  その後、富士電機、鐘紡、三越、信越化学、時事新報など幾多の企業にかかわったが、慶応義塾への寄付を休むことなく続けた。小泉信三によれば、「頼めば勿論、頼まなくても向こふからきてくれるといふ次第」であった。金銭のみならず物品や家屋まで寄付したこともあり、1936年に寄付された木造2階建ての洋館は、「名取ハウス」と呼ばれて塾員に愛用された。
  1939年5月23日、これまでの名取の寄付に感謝するため、名取を招待して教員有志による晩餐会が、芝公園内三縁亭にて開催された。小泉信三ほか多数の教員が、この宴に出席している。この晩餐会は名取にとって励まされるものであったらしく、その後の名取の義塾への寄付活動を見ると、このときを境にさらに活発化している。寄付活動の軌跡は、『三田評論』に随時掲載された記事を追うことによって確認できる。
  学術方面については、名取はその生涯において、1本の論文も1冊の著作も記さなかった。しかし名取は晩年まで読書がほとんど唯一と言ってよい趣味であり、多くの蔵書を有していた。周囲にも読書をすすめる人であったと、複数の人が証言している。経済学の研究発表にも、好んで出席していた。後年には、名取が若きころに学んだ経済学より相当高度な内容になっていたためか、研究会の席でよく昼寝をしていた。「名取さんの楽しみは学問的空気の中に居眠りすることだ」と揶揄されたようであるが、小泉信三はこれを「幾分の真実」と言っている。
  岩瀬英一郎(当時・三越社長)によれば、名取は人の好き嫌いが、普通より激しかった。人をしかるときは直言してはばからず、しかられたほうは相当な衝撃を受けたらしい。その反面、人をほめることもあけすけで、その豪放な人柄は幅広い交友関係を作っていた。政財界に多くの友人を持ち、吉田茂とも懇意だった。戦後直後は貴族院議員を1ヶ月足らず務めたこともあったが、政界に直接かかわることには余り興味がなかったようである。
  1959年6月4日、老衰により88歳という当時としては長命の生涯を閉じた。死後、主に実業界での活動が評価され、正五位勲三等瑞宝章を授章した。千五百冊余りの蔵書は、詳しい経緯は不明であるが、慶応義塾図書館に寄贈されている。「名取ハウス」は、戦災により失われて現在は存在しない。名取の死から2年後に出版された『名取さんの思ひ出』が、名取について書かれたほとんど唯一の書である。(坂本慎一)

旧蔵書 名取文庫(慶応義塾大学三田メディアセンター所蔵)
出典 / 参考文献 「名取さんの思ひ出」編纂委員会編『名取さんの思ひ出』(富士電機製造株式会社, 1961年),
<写真>福沢研究センター