人名 |
永田 健助 |
人名読み |
Nagata Kensuke |
生年月日 |
1844 (弘化元年) |
没年月日 |
1909/4/13 (明治42年) |
出生地 |
埼玉県 |
専門分野 |
商業地理学 |
解説 |
永田健助は名を健之助、健介ともいう。1844年武蔵野国(現埼玉県)野中で生まれる。『慶応義塾入社帳』によれば、数え年23歳の時、1868年旧暦11月18日に入社し、はやくも1869年には、新銭座の慶応義塾で、地理学や歴史学の英書会読の教師を勤めていた。その後、文部省七等出仕し、陸軍参謀本部雇、大学南校教員などを経て、1890年には、新に開設された慶應義塾大学部理財科教員に就任している。 この間、永田はフォーセット婦人(Fawcett, M.G.)等の書を訳しているが、なかでも、1877年に訳出した『宝氏経済学』は、明治の経済学輸入史において重要な作品である。この書は原題が ”Political Economy for Beginners” であるように、初学者向けの経済書であった。原文も多く読まれたが、永田の邦訳本も版を重ねているので広く読まれたようである。 なお、1878年より、義塾では「読書院」と称する勉強会が催されていたが、永田はこの最初の会員であったらしい。この会合は、どのような活動をし、いつまで続いたかなどについて記録がないので、不明な点が多い。しかし塾内では、このころ福沢諭吉も交えた同様の集まりが頻繁に行われ、読書院はそうした会合の一つであったようである。 また、永田は1878年には、『塞児敦氏庶物指数』や『孟氏天然地誌』など、経済学以外の翻訳書も出版している。経済学以外の学問への関心は、この時期の教員には珍しくない。大学部が開設されて専門に分化する前の義塾には、こうした研究者が多かった。永田は学際的関心をもつ最後の世代に属している。 翻訳書以外では、永田は『経済説略』(1879年初版)を著している。フォーセットの説明が日本の実情にあっていないと考えて、日本の身近な例によって解説を試みた書である。この書は翌年に改正版が出版されていが、堀経夫はこの書について「経済学の解説本として相当の影響力をもったものと思われる」(『明治経済思想史』1975年)と述べている。永田はその後も『万国商業地誌』など多数の本を出版したり、『宝氏経済学』を何度も改訳や増補出版したりしている。 慶應義塾大学部開設後は、商業地理の講義を担当することになった。以来、最初期の大学部理財科において教師陣の一翼を担うことになり、また、商業学校でも教鞭を執った。しかし、1898年をもって、理財科での永田の講義は終了し、その後、1903年には、専門学校令公布・学課改正により、大学予科で地理の講義担当している。 永田の経済学は今日から見ると、理論水準としては、もちろん初歩的である。彼の商業地理学も、今日では学説史において取り上げられることは少ない。パイオニアとして明治十年代に大きな影響を与えながらも、彼の経済学は、日本の学界の進歩とともに、世紀の変わり目頃には、もはや役割を終えたものになっていたと言うべきだろう。そして、ちょうどこの頃から、青木徹二、堀江帰一、気賀勘重など、新世代の海外留学経験者が、永田等に代わり大学部の教壇に立ち始めたのである。 永田は1909年4月13日に病気で没した。なお、後に昭和初期に満州国で建築材料商人として活躍する「永田健助」は、同姓同名の別人である。(坂本慎一) |
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旧蔵書 |
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出典 / 参考文献 |
慶応義塾編『慶応義塾百年史』(慶応義塾, 1958-69年), 富田正文著『考証福沢諭吉』(岩波書店, 1992年), 堀経夫著『増補版明治経済思想史』(日本経済評論社, 1991年), 永田健助編述『経済説略』(永田健助出版, 1879年) |